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悲しき障害者

まえがき

現代社会の人々はいつからか自然よりも社会に重きを置くようになりその結果、自然の摂理から離れるようになってしまった。
障害者は英米を起源とする社会モデルという考えによって障害の負の側面を社会に責任転嫁した。

これはマイノリティによるコペルニクス的転換と言える。しかし、障害者たちは社会のバリアを破壊する代償として宇宙における立ち位置を見失うことになってしまった。
同時に障害の本質をも見失ってしまったように思える。

それは真理と真実から遠ざかることに他ならない。

この記事で社会という観点から障害者を否定していく。そしてもう一つの記事で自然という社会とは対立しがちな概念から障害者を否定していく。

私もネマリンミオパチーという先天性の筋疾患を持つ障害者ではあるが障害者に不当に与する意見を述べることはない。

障害者は障害者を肯定しようとする。それは当然である。なぜならそれは自己弁護に他ならないからだ。
だが実際、障害者による発信には論理的におかしいものが少なくない。

障害者は社会の中で必死に自己弁護をするが障害者である私はそれを否定する。


「障害者を情緒ではなく合理的観点から肯定することは不可能である。」

現代社会の障害者

障害者は枠から出ることはできない

全員ではないにしても現代の障害者の主張はえてして矛盾に満ちている。
自分の意志をもつ能動的な障害者であれば障害者という枠に自分を当てはめずに行動したり発言をしようとするからだ。
障害者の中で自分に障害者というレッテルを貼られることに喜びを感じる人はいない。

「障害者」は単なるステータスではない、存在である。

自分という存在を障害者という枠から脱して考えようとする障害者はその考えゆえに障害者という枠に縛られている。

思考そのものが障害にまつわるあらゆる経験から影響を与えていると言える。
障害者の価値観と思考は障害にまつわる体験から影響を受けている。それは障害者が思っている以上の影響だ。むしろそれが全てと言っても過言ではない。
また人間には可能性というものが存在するが障害者にはない。そこが障害者と人間の大きな違いである。

障害者は健常者のイメージができない

相手の立場に立って物事を考えるのは難しい。障害者であれ健常者であれそれは同じである。
しかし、今あげた両者は対極で置かれた境遇が違いすぎる。両者の間には高い壁があり断絶がある。相手の置かれた状況から気持ちを察するなど難しい。
自分が健常者であった時があるはずの中途障害者でさえ自分が障害者になって時間が経てば障害者の目線で「お気持ち表明」をする。
そこに健常者の立場に立つという考えは微塵もない。
中途障害者さえそうであるのに健常者に対し障害者への配慮を求めるのは無理な道理である。

合理的配慮は合理的ではない

障害者差別防止法が施行されてから合理的配慮という言葉をよく聞くようになった。配慮という言葉も単体で使われることが多くなった。

第五条 行政機関等及び事業者は、社会的障壁の除去の実施についての必要かつ合理的な配慮を的確に行うため、自ら設置する施設の構造の改善及び設備の整備、関係職員に対する研修その他の必要な環境の整備に努めなければならない。

障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(内閣府HPより抜粋)

飲酒運転のように法律によって人々の認識が変わることを考えばこの法律には意味があると思う。
ただし、この合理的配慮という言葉には問題がある。

そもそも障害者という存在自体が合理性からもっとも離れた存在であるからだ。
障害者は自然の摂理から逆らって生きており社会の中でも健常者よりも低い賃金で働いている動かし難い事実がある。
私は社会への貢献度で人間の価値を図る立場には立たない。
政府や地方自治体などの公的機関が障害者に配慮するのはモラルの観点から当然である。

しかし、利潤を目的にする事業者がかなり手間のかかることを障害者にするのは合理的であるとは考えられない。

合理的配慮という言葉には矛盾が含まれている。また合理的配慮とは何か具体的に説明できる人間が少ないことも問題だ。

合理的配慮ではなく単純に「配慮」という言葉を障害者が使うことがある。「健常者は障害者に対する配慮が足りない」ということである。
しかし、配慮とは「配慮する側」から始まるものであり「される側」がされて当然と言うのはもはやそれは配慮以外の何かではないだろうか。

重度障害者社会貢献説

重度障害者の中にはまれに「重度障害者がいるからヘルパーの雇用が生まれている」と言って自己弁護する人がいる。
私もそれなりの障害者であるがこの主張は馬鹿げていると言わざるを得ない。
重度障害者がいなくなったとしてもヘルパーの人たちはまた別の職業に就くだけの話である(むしろその方が良い)。

「重度障害者がいるからヘルパーの雇用が生まれている」

だからなんなのだろう。

「重度障害者がいるからヘルパーの雇用が生まれている」と言う理屈は「犯罪者がゼロになったら刑務官の仕事がなくなる」と憂慮するぐらい馬鹿げているのだ。

障害者は認めなくても合理的観点から障害者が存在するメリットはない。例えそれが不都合な真実であってもである。

あなたも明日は障害者

障害者が何かを発信した場合賛否両論を招くことがある。
そしてその発信は道理が通っている場合もあればそうでない場合もある。

障害者が発信するそれはマイノリティを正当化するためであることが多い。
首を傾げたくなる主張の一つに「健常者も障害者になる可能性がある」というものだ。

つまり自分が障害者になることを考えて障害者に対する政策や配慮を惜しむなということである。
(私はSNSで障害者の界隈に入りわかったが障害自や福祉政策について具体的な考えを持っている人は少ない。)
しかし、この主張はあまり意味があるとは思えない。健常者がイメージする障害者とはある程度の度合いの障害を持つ身体障害者であろう。
また身体障害者が言う「もし健常者が障害者になったら」と言うのは事故による中途障害者やALS患者のようなモデルを想定しているだろう。

身体障害、知的障害、精神障害の3区分について、各区分における障害者数の概数は、身体障害者(身体障害児を含む。以下同じ。)436万人、知的障害者(知的障害児を含む。以下同じ。)108万2千人、精神障害者392万4千人となっている(図表1参照)。

これを人口千人当たりの人数でみると、身体障害者は34人、知的障害者は9人、精神障害者は31人となる。複数の障害を併せ持つ者もいるため、単純な合計にはならないものの、国民のおよそ7.4%が何らかの障害を有していることになる。

内閣府 参考資料 障害者の状況

さて、内閣府公式サイトの資料では千人あたり34人だが人口100人あたり3.4%ということになる。もっとも
現代社会では2人に1人が癌になると言われるがそれに比べればかなり少ない。

2019年に新たに診断されたがんは999,075例(男性566,460例、女性432,607例)*
*性別不詳があるため男女の合計が総数と一致しません。
2022年にがんで死亡した人は385,797人(男性223,291人、女性162,506人)
2009~2011年にがんと診断された人の5年相対生存率は男女計で64.1 %(男性62.0 %、女性66.9 %)
日本人が一生のうちにがんと診断される確率は(2019年データに基づく)
男性65.5%(2人に1人)
女性51.2%(2人に1人)
日本人ががんで死亡する確率は(2022年のデータに基づく)
男性25.1%(4人に1人)
女性17.5%(6人に1人)

国立研究開発法人国立がん研究センター がん情報サービス

癌はテレビなどで取り上げられることも多く病気の中でも身近な存在である。
冷静に考えれば健常者が自分が癌になることを想定することはできても自分が中途障害者になることはイメージできないのは無理がないだろう。
しかし、障害者はそういった健常者の立場に立って物事を考えることはできない。
いや、障害者にしろ健常者にしろ相手の置かれた立場や環境に立って考えることができる人などどれくらいいるだろう?

「健常者も障害者になる可能性がある」を引き合いに主張するのは合理的ではないのは述べた通りだ。

個人的な話を引き合いにだしたい。私の父は還暦を過ぎたが息子が先天性の難病を持っているにも関わらず死生観、つまり価値観に影響は見られない。

父の兄は50代前半で癌で死んだのだが父は法事の時だけは殊勝な態度を普段は酒を飲みながら「日本人の平均は〜」などと宣い自分はまだまだ死なないと思っている。

表向きは人生何があるかわからないと言う人も本心では私の父と同じように思っている人は多いのでないだろうか。

障害者が健常者に向かって「次はあなたの番です」と言うことにさほど意味はない。

障害は存在しない

とある障害学の本の帯に「障害は障害者にではなく社会にある」とキャッチフレーズが書いてあった。この言葉は社会モデルを見事に体現している。
現代では障害に関わる問題に取り組む人のほぼ全ての人が社会モデルを標榜している。

しかし、同時に社会モデルの立場に立ちつつも反省を促す人もいる。
社会モデルは社会に目を向けるがゆえに障害者本人の障害にまつわる経験を軽視しているというのがその理由だ。

「障害は社会が作り出す」と考える意識の高い人は多い。
もっともそれは障害者だったり職業柄障害者と関わることが多い人たちである。
「障害は社会が作り出す」まず段差があると車椅子はそこは通れない。
しかし、車椅子もスローブであれば問題なく通れる。
ゆえにスローブ(障害)を作り出してる社会に問題があるという理屈だ。これがまさに社会モデルの本質である。

しかし、これは本当に正しいのだろうか。もちろん一つの理屈であることは間違いない。
ただし、障害とは病気または事故によって起こる場合が多い。

障害と障害者本人は切ってもきれない関係にある。私たちの生活における様々な障害は自分の身体の障害が原因だ。
それは明白なことにもかかわらず問題の本質は社会に全面的に転嫁する社会モデルが本質的をついた考えとは私には思えない。
社会モデルは医学モデルからのコペルニクス転回だったのかもしれない。しかしそれと引き換えにマイノリティたちは障害者としての自分自身の探求と成長を放棄してしまったように思える。

裏切りのヘレンケラー

障害に携わる人はなんらかのキャッチフレーズを使うことがある。
「障がいは不便です。でも不幸ではありません。」は障害者の中でも意識高い人が好んでよく使う言葉だ。

これはヘレン・ケラーの言葉であり某有名障害者も引用したことで知名度を上げた。

ヘレン・ケラーについては誰もがその名前と視覚障害と聴覚障害を持つ重度障害者であることを知っているだろう。

「障がいは不便です。でも不幸ではありません。」という言葉は「貧乏だけど幸せです」と同じで納得しがたい感はあるが幸福は価値観に依存する面があるのでここでは言及しない。

偉人の言葉というのはその人物の実績を裏付けとして力をもつ。問題なのはヘレン・ケラーという人物が優生思想の持ち主であったことである。
これは本人が書いた書簡より分かったことだがこの事実はあまり知られていない。wikipediaにはこう書かれてある。

ケラーは優生学を支持していた。 1915年に、ヘレンは重度の精神障害または身体的奇形のある乳児に対する安楽死を支持するという書簡を発表し、「人生に高潔さを与えるのは幸福、知性、才覚の可能性であり、不健康な、奇形の、麻痺した、思考をしない生き物の場合、それらは存在しない」「精神障害者はほぼ確実に、潜在的な犯罪者になる」と述べた。この書簡はかなりの議論を呼んだ。

wikipedia ヘレン・ケラー


私が最初にヘレン・ケラーの優生思想について知ったのは次に載せるwebサイトがきっかけである。よく書かれているので載せる。
どうやらヘレン・ケラーが条件付きで安楽死を肯定していたのは間違いないようだ。
もっとも優生思想か否かについてはその定義にもよるが一般的な解釈で言えば優生思想と言ってよいと思う。
安楽死は自分から行えば安楽死や自殺の範疇に入るが他者からの発言や肯定の場合に優生思想と呼ばれがちだ。
さて、ここで問題なのは安楽死の是非ではなく障害者の安楽死を肯定した自分の中に障害者のシンボル、ヘレン・ケラーがいることである。

日本人障害者の多くがヘレン・ケラーやサリヴァンをある程度理解しているとは私は思わない。

だが「障がいは不便です。でも不幸ではありません。」はたしかに聞こえの良いキャッチフレーズだ。
結局のところ幸福は価値観の問題であるので本人が不幸ではないと言えば論破不可能である。

ヘレン・ケラーは障害者の中でも重度の知的障害のある障害者を念頭に置いていたようだ。
つまり自分はその範疇に入っていないということだ。ヘレン・ケラーは生まれも育ちも生粋の障害者であるはずだが、健常者のような傲慢さを有していたのは面白い。
もちろん、論理的に矛盾しているわけではなくそれを非難するつもりはない。

「障がいは不便です。でも不幸ではありません。」を障害者の一部がキャッチフレーズにしていることはすでに述べた。
ヘレン・ケラーはそんな人たちは冷徹に切り捨てる。

なぜなら身体障害者は「重度の知的障害のある人は幸せを認識できないから生きていても仕方がない」とは言わない。
あくまで全ての障害者を含めて対してキャッチフレーズを使う。

それに対してヘレン・ケラーは先の言葉を身体障害者について指したのであり重度の知的障害のある人に向けて言ったのではない。

いや、実際は身体障害者も内心ではヘレン・ケラーと同じかもしれない。障害者の度合いが違う人、異なる障害を持つ人の間で差別は昔からあったようだ(現在もあるが)。

障害自体は不幸ではないと言ったヘレン・ケラーの言葉も先の書簡の存在を知った後では違った解釈が取れる。

ヘレン・ケラーも知的障害者を幸福を認識できない存在として差別していた。しかし、ヘレン・ケラーは自身は不幸ではないと言いたかったのかもしれない。

誰しも自分の人生や存在を否定されたくない。障害者も差別をする側になり得るし傲慢さも持ちうる。
他ならぬ障害者にイコンとして祭り上げれたヘレン・ケラーがそれを我々に教えてくれたのはなんとも皮肉な話である。







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