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身体障害者の心理学[2]環境と適応

まえがき

障害を持って生きることは困難を伴う。生きていく中で大なり小なり障害が人生の障害となる。

私は先天性ミオパチーという筋疾患を持っていて今でこそ外出の際は車椅子を使うが大学一年生で中退するまでは自分で歩行していた。
だからこそ持病がら足の疲れと息切れは日常であったし障害のある身で学校生活を送るにはさまざまな努力が必要であった。

中退後、障害について調べて執筆しようと思い立った時ふと疑問が起こった。

「自分以外の障害者は障害を抱えて生活していく中でどんな工夫をしていたのだろう」

そこで実際に調べてみたことをこれから書いてある。この記事で述べるのは「環境」と「適応」についてである。

環境とは社会と言い換えてもいいだろう。私たちが普段いるのはサバンナではなく人間社会だからである。

身体障害者が学校や職場といった健常者社会の中で生きていく中で行う工夫を私は適応と名づけた。正確に言えば「適応する」が行動であり適応は現象となるだろう。

適応は障害が行う工夫、すなわち動作であり現象でもある。それをこれからみていきたい。

これからの前半では身体障害者と環境の関係について、後半では身体障害者が社会で生きるために発現させている生存本能とも言える適応という現象を見ていきたいと思う。

社会モデルが主流な考えとなる中でバリアフリーや合理的配慮に囚われ障害者と障害そのものに対する探究がおざなりになっているのは悲しいことである。

私自身は筋疾患患者であり普段は先天性身体障害者について発信することが多いがこの記事では身体障害者全体を記述の対象範囲としたい。
なぜなら身体障害者と環境の関係の普遍的な事実について述べるのが目的であるからである。

障害者にとっての環境とは何か?


身体障害者と環境(空間)はどのような関係なのだろうか?

ここでいう環境とは自宅、交通機関、学校、職場など広く身体障害者がいる社会と結びついている場所全てを指していると考えてほしい。

まず障害と障害者本人は一体であることが前提である。
それは切り離せないものであり障害者は障害と一体の状態で物理的環境を知覚する。

環境における段差をはじめた物理的障害は車椅子を使う身体障害者からは文字通り障害と知覚される。
ここでいう段差のような物理的障害は社会モデルの考えでは社会が作り出す障害と解釈される。
疾病や怪我から生み出される障害そのものとの意味あいが異なるので注意しよう。
ここではわかりやすく段差のような障害は物理的障害として書き分けることにする。

物理的障害は実在しているものの本人の体に障害があってこそ認識されるゆえ身体障害のない人には物理的障害とは認知されない。
例えば健常者がラーメン屋に入る際に入り口に段差を見つけてもいちいちなんとも思わないだろう。

当たり前の話に聞こえるかもしれないが障害者と健常者の両者が段差を見つけてもそれを障害と認識するのは身体障害者のみだ。もちろん物理的障害は段差だけではないが。

障害のない健常者から見れば身体障害の発生でその空間に対する認知が変わある。
段差のある環境はそれを苦とする障害者からは文字通り障害と認知されるが逆に言えば身体障害者が環境に干渉しているとも言える。

だからといって私はこの記事で障害について存在論や形而上学の観点から考察をしたいわけではない。

また障害が認識によっていかようにも解釈できると言っているわけではないので先に進むことにしよう。

ところで先天性の身体障害を持つ人たちは何歳から自分の障害を認識するのだろうか?
これは難しい問いでまずどの身体障害で考えるかで話は違ってくる。

また私は先天性ミオパチーを抱えていますが先天性の神経性筋疾患の場合は親が幼児のうちから検査して病気の確定診断を済ませる人ばかりではないという事実がある。

これは年代が上がるほど顕著である。

また筋疾患があることは診断されても検査で具体的な病名を確定させずに済ませてしまうことも多い。

私の場合は検査と診断を幼稚園児の段階で行いましたがその時点で漠然と自分が普通と違うことを認識していた。
他の先天性ミオパチーの方にも同様な方がいた。
障害者は園児の段階でも自分と他者が違うことを漠然と理解できることがわかる。

ピアジェの認知発達で言うならばここは前操作期に当たる。私もこの年齢の障害児は障害を直感的な思考でしかとらえず論理的に理解することはできていないと考えている。

障害児である自分と健常児である遊び仲間との違いへの理解もそこに論理的思考はない。

神経性筋疾患を持つ障害児は前操作期には論理的思考を持っていないがゆえに大人が言い聞かせる「あなたは足が遅いから」と言う大雑把な説明を受け入れるしかない。

視覚障害者や聴覚障害者の場合ですと筋疾患より障害があることが両親も気づきやすい。

障害の種類の違いはあっても認知発達のメカニズムは変わらないので視覚障害や聴覚障害を先天的に持つ人でも具体的操作期に到達しない限り障害を理解することはない。
幼児は自分の障害が自分自身にどのような不利益をもたらしているかを客観的に考えることができない。

障害児が障害を受容することはない。障害児が形式操作期(11歳〜)以前の場合には受容はそう言えます。あくまで漠然とした認識にとどまる。

適応

身体障害者の心理学における適応とは自然界における環境ではなく社会という枠の中の環境に適応すること。

原則として適応は自身がいる生活環境が社会に近ければより働きやすくなる。

これは当たり前の話で、自宅の自室に閉じこもり全てネットで完結させている障害者に適応の働く余地が少ないのは当然である。自宅と外でどちらがバリアが多いかは明白です。

学校、職場、娯楽、買い物で外へ出ることで障害者はさまざまなバリアにぶつかる。
適応はそれを完全に解決するとは限らないができる限り社会に適応しようとする生存本能の産物である。

思弁的な話はここまでにして次は実際に身体障害者たちが生活環境に適応する具体例を交えながら考えたい。

視覚障害者の事例

現代の障害者は文明の利器なしには生きられない。視覚障害者も大きくハイテクに依存している。

現代の視覚障害者はVoiceOverなどの音声読み上げ機能を使っている人がダントツで圧倒的に多い。
つまりそれだけ聴覚障害の広くをカバーできる効果があるということだ。
視覚障害者向けに色を判別するアプリもある。これは主に洋服選びとかに重宝する。
キーボードも点字型キーボードなどを使う人もいて視覚障害は白杖以外にも様々な道具を活用して世の中を生きている。

聴覚障害と言っても度合いに差がある。そしてその質も異なる。
夜盲症は単純な視力の問題ではないので夜盲症の方はスマホのカメラアプリを通して視界を確保するという。
健常者の方かたからすればこのような挙動はいさささ滑稽に見えるかもしれない。
障害者がおこなうこのような工夫が健常者社会で苦しむ中で行われる涙ぐましい努力であることを障害者である私は知っている。

特に内部障害者や肢体不自由者よりも視覚障害者はその行動により自分の命を左右してしまう。
読者のあなたも視覚障害者が線路に落ちたニュースなどを聞いたことがあると思う。

視覚障害者の生活の中の行動一つ一つが自身が生きるか死ぬかを左右するものであると言っても過言ではない。失敗が許されない。
階段にきづけなければ落ちて死ぬし、道路からはみ出れば車に轢かれてしまう。まさに一寸先は闇である。

視覚障害にも道具以外の適応は存在する。文明の利器では対処できない場合はそれをアナログで補償する。
アンケートをとった際にある視覚障害者が「置き場所などが変わると混乱のもとになるので家のものは配置を一定にしている」と答えた。
同じ事例をテレビやYouTubeでも見たことがあるので視覚障害者の多くがこの工夫をしていると見ていい。

自分がやりやすい家具配置、広く言えば生活のルーティンを作るのは障害者にとってとても大事なことだ。

視覚障害者の回答で面白いのがあった。それは「食事の際にクロックポジションに従い位置を固定をする」。

クロックポジションとは食事介助のやり方で本人から見て時計の針の位置で食器の位置を同伴者が教える方法のこと。
例えば自分から見て右側にスープがあれば3時の方向となるわけだ。自炊する視覚障害者もいるので1人で食事をする時もこれならスムーズである。
調査以前の私は視覚障害者についての知識がなかったので彼らの回答は興味深かった。

ところで私は聖書学習という趣味を持っているのだが古代オリエント博物館の月本昭男先生の旧約聖書講座を受けた時に興味深い部分があった。古代バビロニアの社会に関する記述である。

<バビロニアの盲人楽士>古バビロニア時代(前 1700 年頃)の楔形文字書板には、人々が眼の見えない女性シヌヌトゥムを楽士として育てるために、 自分のところに連れて来た、と記した文書が残されている。

旧約聖書と古代オリエント:出エジプト物語第4回

古代バビロニアだけでなく古代エジプトにも盲目のハープ奏者がいたようだがこれらの事実は古代の視覚障害者たちが自らの障害を考慮し持ってる他の技能で社会を生きていたといえる証拠である。
我が国において中世日本で按摩と呼ばれていた人たちでそれにあたるだろう。

盲目の詩人といえばイリアスをうたった詩人ホメロス(前700年?)有名だががそれよりはるか以前に自らの身体の特性に合わせた職についている人がいたのは驚きに値する。

視覚障害者の話が出たのでこのまま続けよう。
障害者が社会生活の中で苦境に立たされるのは誰の助けも得ることができない時だがだからこそ適応が重要性を持つ。

例えばとある実験で視覚障害者は正面に壁があると寸前で止まったそうだ。しかし耳栓をして聴覚を遮断した状態で同じことをすると壁の前で止まることができなかった。

視覚障害者が聴覚で多くの情報を取り入れていることに疑いの余地はない。
いわば聴覚で視覚の「補償」行っている。

このことに関してはSNSである視覚障害者の男性とメッセージのやり取りをした際に買い物先の店内を周回してその空間を把握すると教えてくれた。
加えてコンビニなどで店内の商品の陳列が変わると困るともいっていた。後者については聴覚に頼らないやり方だ。

特定の条件で障害者にとって危険性が増えたりストレスが増えることは珍しくない。

視覚障害者の人たちは外出時に雨が降ってる状態だと音により周囲の情報を判断しずらくなるという。
それに加えて傘という荷物が増えることで注意力が散漫になる。

視力障害者では、失われた視力の埋め合わせとして優れた聴力が発達するのだろうか?その答えはイエスだ。こうした人たちではピッチを識別する能力がより優れていることがP Belinたちによる報告で明らかにされた。目の見えない人は健常者と比較して、音を聴いて自分のいる位置を把握する能力が優れているといわれている。しかし、こうした認識力の強化が、音楽や声を聴き分ける能力といった他の聴覚領域にも及ぶかどうかについては不明であった。Belinたちは今回、視覚障害者では、2つの音の間でのピッチの変化の判定能力が目の見える対照者より優れており、変化の速度が対照者が感知できる速度の10倍になっても判定できることを示した。ただし、この高い能力は、幼児期以前に視力を失った人たちでしか認められない。今回の結果は、ミュージシャンやピアノの調律師たちがとっくの昔に気づいていたことに、科学がやっと追いついたということのようだ。

2004年7月15日号の Nature ハイライト 聴覚:視覚障害者の優れた聴覚

障害者は文明利器で自身の障害による能力の欠如を補償しているがそればかりではない。

聴覚障害者の事例

聴覚障害者と言えば手話のイメージがあるが実際に手話を使用しているのは聴覚障害者のうち2割だという。

本によっては1割というデータもあるがどちらにしろ全体からして少ない割合だ。

そもそも手話というのは狭いコミニティでしか使えないしそこでさえも使えるとは限らない。

調べてみるとスマホの文字起こしを活用している人が多い。
視覚障害者も音声読み上げ機能をかなりの割合で使っていたので、現代身体障害者を語る上でスマホは外せないようだ。

筆談も併用されることもわかったがそれもスマホで文字を打つ人も多いのでやはりスマホの汎用性は高い。
ただし、スマホ音声を取り込み文字起こしする場合集団の場合は難しくなる。音が重なりスマホでうまく認識ができない。
この問題に限らず、複数人になると相手の唇の動きを読み取ることが難しくなるので苦労する聴覚障害者は多いようだ。

手話や口の動きを読んだり、筆談をする…これを状況によって使い分ける聴覚障害者もいた。

聴覚障害者は障害によって失われた能力、つまり視力を聞くことによって補償する。視覚障害者であれば聴力で補償することになる。

電車やバスではアナウンスが聞こえないので、案内や他の乗客のリアクションを見て判断すると答えてくれた人がいる。
また呼びかけでは気づかないので手を振ってなどしてもらうらしい。ある程度の経験を踏んでいたりある程度進んだ障害者であれば人に頼ることもあまり躊躇せず行う。

玄関のチャイムに気づかないので点灯式にしたり置き配を使ったりする人もいる。聞き取りをしてわかったが社会の新しいサービスや仕様が自分の障害と親和性が高い場合それを積極的に取り入れる傾向にある。

自分が難聴を持つ聴覚障害者であることを隠す人は多いがこれは軽度におけるケースである。
中程度になれば自身の状況を受け入れざるを得なくなる。
そして筆談や読唇でも厳しくなってくると最近では人工内耳へ移行する人も多い。

人工内耳の手術を受けることで難聴が改善するケースも少なくない。
これは個人差もあるし万人に適用できるわけではないが「改善」したという声をよく聞く。


聴覚障害者がスマホで積極的にコミュニケーションをとっていることを考えれば手話や手書きの筆談という典型的イメージは過去のものなのかもしれない。

ではスマホがあれば万事が解決するようではこの記事をこれ以上読む必要はないだろう。

肢体不自由を抱える障害者の事例

筋疾患を患う人はほとんどが肢体不自由を抱えている。肢体不自由といえば他に脳性麻痺が思い浮かぶ。

私が抱える先天性ミオパチーや筋ジストロフィーと後天性のALSは病気としての性質が異なるが適応を考える上では厳密に分ける必要はない。

ある球脊髄性筋萎縮症を抱える男性が話してくれたのは「移動中に立ち止まる際や座っている時にキャリーケースの取っ手を掴むことで体重を逃す」という「テクニック」である。

これは健常者のみならず筋疾患患者以外の人たちにはしっくりこないかもしれない。
私も傘を杖代わりにしたことが何度もあるのでこれはよくわかる。
疲れを自覚して止まった時傘やキャリーケースの取っ手、またはそれに類するものに掴まり体を支えることで自分の体を支える負担を減らし呼吸に専念できる。息切れをしている場合は息を整えやすくもなるという意味もある。

私も入っている先天性ミオパチーのコミュニティの方に普段の生活の工夫を聞いたところ「在宅で仕事をする」「スプーンなどは軽いものを使う」や「住まいや家具を車椅子に合わせる」などがあった。

肢体不自由者の適応は正直そこまで多種多様ではない。これは推測になるがサンプルの偏りもあるだろう。
筋疾患の場合、そしてSNSの場合病気の度合いが重度の人が目立ってしまう。軽い人の場合、そもそもプロフィールに筋疾患を書かない場合も多い。

先天性ミオパチーの場合は個人差も多く軽度の人も多いが筋ジストロフィーやSMAの場合歩行可能な人はほとんどいない。

そして先述の通りやはり自宅や施設よりも学校や職場の方が適応が発現されるのは間違いない。
ある種がその環境で存続するために進化するように障害者も環境に合わせて変わる。
できない個人は社会から淘汰されドロップアウトするしかない。

自宅であれば自宅を自分に合わせることになる。自宅の場合は適応の多様性は大幅に減る。安寧とした場所では努力に迫られない。

先天性ミオパチーは個人差が大きいが呼吸筋が弱い人が多く気管切開や人工呼吸器の存在は社会進出の妨げとなる。

その人が環境に合わせる努力より障害の重症度が勝る時、適応は発生しない。

私自身も学生時代は着ていく服や荷物を軽くしたり親の送迎のタイミングなど一挙一動に気を遣っていた。
歩く速さが遅いので人より時間に余裕を持って行動していた(10分以上は余裕をみる!)。
エレベーターや信号待ちの時も息を整える時間として使った(わざと赤信号になるタイミングで横断歩道前に到着する)。

しかしこれらは必要に迫られて行ったことである。適応とは障害者が必要に迫られて発生する行為であり現象だ。

私がやってきた工夫はいろいろあるが大学を中退した途端にこれらの工夫をすることは無くなった。なぜならする必要がなくなったからだ。

次に後天性の筋疾患である筋萎縮性側索硬化症(ALS)の適応例を見ていく。
ALSは筋疾患の中でも後天性ということもあり筋ジストロフィーや先天性ミオパチーよりも進行が早い傾向がある。

筋疾患がある程度進行した場合、体の動かせる範囲が指先やまぶたなどに限られると道具以外に適応が働く余地が少なくなる。

病状が進行したALS患者は指先の力が衰えると視線による文字入力でコミニュケーションをはかろうとする。
ここで一つ面白いことに気づく。先ほど述べましたが視覚障害者は施設内(または店内)の位置関係を理解するために歩き回ることがある。

するとどうだろうか。

筋力の衰えたALS患者はソフトなどを使い文字を視線入力sる。対して視力の劣った視覚障害者は歩く事でハンデの部分を補完する。
つまりそれぞれの障害と適応が対称的になっているように見えるる。

次にある人は「杖を使い歩行して両手が塞がるのでリュックを愛用している」「補聴器を使用している時はなるべく早く後ろに壁がある所や角のすみのほうに陣取ると聞こえやすい」と答えてくれた。

このかたは難聴と脊椎損傷に加え狭心症も患っている男性である。
慢性疾患患者や障害者は単一の疾患や障害だけでなく他にも問題を抱えていることが多い。
それはもともとの障害や慢性疾患と因果関係がある場合、あるとは思えない場合もある。

ここで疑問が生まれる。

「すべての障害に対して適応は発生しうるのか?」

適応がはたらく余地がない場合がある。これは障害というより慢性疾患の場合に当てはまる。

例えば私が聞き取りをした線維筋痛症を患っている方は「病気に対して何か生活の中で工夫をしたりはしますか」という質問に対して「痛みが治るのを待つしかない」と回答した。

またある慢性腎不全を抱えていて人工透析に通っている身体障害者である男性ブロガーは「特別生活で工夫できる余地はあまりない」と教えてくれた。

障害者には日常生活で壁に当たった時に障害者には三つの選択肢がある。
「適応する」「人に頼る」「諦める」これらの判断が適切にできない場合、さまざまな事故をはじめとしたトラブルにつながる。

先日私がインタビューしたSMAを患う男性は健常者のように動かないにも関わらずアメリカへ留学経験があった。
「今までどうしてたのか?」と私が聞くと「友達がいない場合は知らない人に手を借りたりした」と答えてくれた。
また「新しい環境にいっても工夫したり適応できてしまう」とも話してくれる。

総論

ここまで障害者へ聞き取りをして、障害者の健常者社会への適応を見てきた。
ここで何がわかったのか簡潔にまとめたい。障害の枠を超えて見られる共通の事柄も少なくない。

障害者は健常者をマジョリティとする生活環境に適応するためにさまざまな試行錯誤をする。それを「適応」とよぶ。
障害者はハンディキャップはあれど社会に接しようとする傾向がある。障害が重度になれば社会からの離脱率が上がる。
障害者が社会から離れると適応の多様性は著しく減る。ゆえに先ほどの生活環境とは社会と言い換えることができるだろう。

適応には「道具」を用いる場合と「本人の動作」に由来するものの二つがある。どちらに比重が偏るかは障害の種類と度合いにより決定される。
重度の障害になれば道具、それは大概ハイテクに由来するがその比重が高まる。補聴器や視線入力装置などはいい例であろう。
基本的に私は動作に由来するものに注目した。
視覚障害者や聴覚障害者は文明の利器と特定の動作を併用することで健常者社会を生きていることがわかった。
車椅子を使用している人は適応の余地が意外にも少ない。この場合はバリアフリー問題に大きく依存する。

もう一つ強調しておくべきことがある。
私はこの記事で障害者が社会でどう生きるための涙ぐましい努力を描写したがそれはほんの一端に過ぎない。

健常者はこのように日常生活で何かを見たり聞いたり、動いたりするのに気を使うことはない。

だが障害者はそうではない。
先天性の障害者であれば健常者がする必要ないことを健常者中心の社会で行わなければならない。
それは障害者が未成年である場合は経験となり価値観に影響を与えるだろう。
聞き取りをした結果、文明の利器や特定の動作によって状況が打開できない場合、最後は他者の手を借りるパターンがあることがわかっている。
はじめから他者の手を借りる人は少ない。

障害による経験が障害者の発達心理に与える影響は無視できない。
そしてそれには健常者社会に追いつこうするその経験も発達心理に少なからず影響を与えていると思われる。


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