見出し画像

2015年2月の言葉

これらはわたしが過去に書いていたブログから掬い上げてきた言葉と写真の一部です。

今までネット上に書いてきた言葉を、このnoteに少しずつまとめていこうというのが、この場の目的のひとつです。

それは、わたしはこんなにも前からまったく同じ場所にいた、その確認作業のようなものでもあります。

おんなじことをきっと一生言い続けているな、わたしは。そんな風に思うと、本当に成長しないのねきみは、と自分に言いたくもなり、そしてなんだか安心します。


2015年 2月 2日

時々、会話っていうものは野暮なことだと思ってしまう。
人がこの世に二人しかいないとしたら、二人はどんな会話をするだろう?
そこにどんな言語が存在するというのだろう。
きっと言葉はあるだろう。
でもそこには、大いなる空白という言語があるだけだと思う。

愛もひとつの空白だと思うのです。



2015年 2月 3日

物を作ることは祈りだと思っています。

祈りは大袈裟であってはいけないし、いつも小声で、秘め事を含んでいて、目を閉じて、暗がりの向こうで一人ぼっちになる。
祈る時の人の顔は悲しみに似ている。そしてふと、その表情は悲しみの内側から無へ帰る瞬間がある。

わたしは時々、黙りこくった赤ん坊の顔の中に同じ表情を見る時がある気がするのです。




2015年 2月 6日

わたしは放浪癖のある子供だった。
同時に、子供の頃からふとした瞬間に、「帰りたい」という感情に焦がれることがよくある。
幼少から10代の殆どを、この上なく孤独な田舎の町で暮らしていた。家の中から外の景色を見ると、湧き起こるのは遠くへ行きたいという感情ではなくて、どうしようもなくどこかへ帰りたいという感情だった。

それは、わたしの中に存在する、今まで見たことのない景色のある場所だろうか。

わたしは死ぬまで、この「帰りたい」という気持ちに縛られているのかもしれない。
そして、この気持ちは、きっと紛れもなく、深く恋するという気持ちと似ているのだろうと思う。


2015年 2月 10日

わたしの悪い癖の一つに、会話の最中に物思いに耽り始めて言葉が中断されるというものがあるのだけど、
思考している時の人の顔というのは、裸よりも剥き出しで赤裸々で、内側の美しさが表面に浮き彫りにされる瞬間だと思う。

だから、人前で考え事をするのはなんとなく恥ずかしい。
一方で、思考する人の顔を見るのがとても好きだ。と思う自分は、少しサディズム、もしくは覗き見趣味が入ってるのかもしれないなあ。


2015年 2月 11日

綺麗に咲いている生きた花より、
枯れた葉や花が似合うと言われる。
それが褒め言葉だとして、そもそもどうなのかというのは置いといて、
物が枯れていくのを見るのが趣味だ。

花や植物にとっての死とはなんだろうなあ。

一生文章を書いて生きていくんだろうなと漠然と子供の頃思い、言葉の美しさと狂暴性に惹かれ慄き、子供の頃から今も相変わらずな癖にひとの言語が得意じゃなくて、植物や錆のように物言わず風化していくものや、ずっとそこにあるものや、目に見えない何かや、光や闇のようなものの持つことばに耳を傾けようとして、私自身は口下手なばかり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?