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人生のゴールデンタイム

先日中学の仲間や高校の頃の仲間とご飯行ったり、お酒を飲んで昔話をした。そこで感じたのは僕のこれまでの23年間で最も記憶が多く残ってる時期は中高生だったんだなって感じた。

なんでだろう。学生の日々があんなにも眩く、美しいものに今は見てしまうのは。

僕が思うに、高校生の時ほど人生の岐路を無責任に選べた時期はないからだ。自由に未来を想像して、自分ならきっとこうなるだろうなとか、自分は他の人と何かきっと違うことができるんじゃないかとか無限に自分に可能性を無責任に、そして自由に馳せることができたからだと思う。僕は本当になんにでもなれる気がした。世界だってもしかしたら変えられるすごい人になれる気がした。

実際は、大学生になってから世界から見たら自分というのは限りなく小さな存在で、そしてどうしようもなくありふれた人である現実を見つめざるを得なかった。いつの間にか情熱は諦めに変わり、夢は妄想へと置き換わっていった。大きな野望は現実的で堅実な線路へと変わった。これが大人になることなのかと絶望し、こんなはずじゃなかったのになと思うようになった。

そして、過去を思い出すといかに自分が自由に無責任に夢や将来像を描け、そしてそれは揺るぎないものだと信じて疑わなかったか。あの頃はものすごく輝いていて毎日が鮮やかな彩度で瞳に写っていた。でも今の自分を過去の自分が見たら失望するに違いない。

それは僕だけではなく、語り合う友達も同様であった。

大人になるというのはこんなにもつまらないものだと感じてしまうのはきっと僕がイチローや本田圭佑、大谷翔平のように子供の頃から将来の自分を確固たるものにする稀有な存在ではなかったからだ。

諦めや妥協、負けることに慣れてしまった人間になってしまったからなのだろう。

でも過去は絶対戻ってこない。そしていくら戻りたいと思っても世界は容赦無く進み続ける。まるで僕という人間がいないかのように関係なく進み続ける。

僕の人生のゴールデンタイムは間違いなく高校生の頃であの頃のような無責任な夢や自由な行動はもうできないだろうけど、輝きはきっと取り戻せる。

世界は僕という小さすぎる存在を気にも留めない。なら自分くらいは僕という存在を気にかけ、諦めや負け続けることから一歩進むしかないんじゃないのか。


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