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教育とメディアに携わりたいから、「嫌いな人」を作らない

「教育において一番大切なことは尊敬だ」

これは教育について語るとき、僕が必ず言うことである。尊敬とは、ありのままのその人を視ること。他者との対等な人間関係を築く上での必須要素であり、多くの人々が忘れていることでもある。

参照:管理職は単なる「小言のうるさい姑」になってはいけない

かなり平たく言えば、偏見持たないことになるのだが、そう容易いものではない。僕たちは知らず知らずのうち、様々な偏見を持っているものだ。何気なく発した言葉が、誰かにとっての差別になったり、あとから考えれば時代錯誤なものになったり、などといったことはしばしばある。

これは教育に限らず、他のあらゆることにおいても同じことが言えるのかもしれない。なかでも、メディアは少しの偏見が命取りになる世界だ。受け手への配慮が足らず、バッシングを受けることがあれば、差別や偏見を助長する恐れもある。

だから、教育やメディアに携わる人は、自分の中にある偏見にできる限り意識的になり、目の前の人や事柄に注視しなければならない。

僕はそう思うようになってから、意識していることがある。それは、できる限り「嫌いな人」を作らないようにすることだ。冷静になって考えてみればわかるのだが、世の中に「悪い人」はそこまで多くない。文化や行動様式、状況が異なるだけで、多くの人々はそれぞれの立場をただ生きているだけだ。現に、「腹を割って話してみれば、結構いい奴だった」みたいなことは往々にしてある。

つまるところ、「嫌い」のほとんどが無理解・無関心によるもので、単なる偏見なのである。ちゃんと関心を寄せてみれば、「嫌い」ではなく、単に「合わない」だけだと気付くことも多いだろう。

より正確に言うならば、「嫌い」は自分が許せていないことだ。例えば、自分が貧乏だとすると、金持ち(最近で言えば、Youtuberとか仮想通貨で金を稼いでいる人とか)を嫌ってしまったりする。これは、自分がお金を稼げないという事実を受け入れたくがないために起きることであり、大した努力をせずにお金持ちになったかどうかはさして重要ではないのだ。貧乏な人にとっては、「ラクして金を稼いでいる(風に見える)」ことが気に食わないのだから。つまり、自分の中で受け入れられていないことに関して、僕らの「嫌い」は働くのだ。そこに事実や正邪はほとんど関係ない。

もちろん、偏見を完全に無くすことができないように、「嫌い」を完全に無くすこともまた不可能だ。しかし、努力によって、ある程度まで減らすことはできる。僕自身、致命的なまでに嫌いな人が多かったが、今は嫌いな人はかなり少ない(「合わない人」はまだまだ多いが)。

こんなことを書いたのは、教育とメディアに携わりたい自分への戒めのためが1つ。もう1つは、ここ最近、SNS(主にTwitter)で「嫌い」が飛び交い過ぎていると思ったため。

教育やメディアに携わる人でなければ、「嫌い」を減らすことはさほど重要ではないのかもしれない。でも、「嫌い」が多い世界と少ない世界だったら、僕は後者の方が良いなと思う。「嫌い」を減らせばちょっと世界が良い方向に行くかもしれないし、贅沢を言えば、「好き」が溢れていれば、必ず世界は良くなるはずだ。

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