儚い人生で何度死にきれるか
人生22年生きた。
「もう22さい」「まだ22」「22さいになった」
捉え方はもちろん人それぞれだけど、与えられた時間は皆同じ。
19さいの時、「あっという間に30になるんだろうなあ」と半ば本気で思っていた。時間はあっという間だし、学生という肩書きが外れると大人の体感時間はその何倍も速いと思っていたから。
10代の儚い時間はあっという間に過ぎ、現実を知り社会で生きていく。
人生に期待していないわけではない。自分の価値観を持っているし、目的を持って行動できる性格だからこそ楽観していた。
でも、この数か月で私の人生観が変わったことに気づく。
感覚的に、私は40歳までに4回死ぬ。死ぬっていうのは人生の節目みたいなものでステージの一段階。直近で表すとしたら25さいから第二ステージ。
あと3年しかないか、3年もあるか。
どう考えるかも人それぞれだし別に焦っているわけではない。でも、「若いうちに失敗しとけ」「今のうちに」という大人がたくさんいるように、「今」を生きている大人って案外少ないからこそ考えさせられる。
”若いうち”に経験できなかった大人は無意識に若者にエゴを押し付ける。
自分がやりたかったこと、自分が諦めたこと、自分が否定されたこと。。
自由に動ける(らしい)”若いうち”が終わってしまうと、人は知らない間に人生を諦めている。そして、何かのせいにしたくて行動力を持たなくなる。
そんな大人を見てきたからこそ、人生はあっという間だとつくづく感じる
人生の儚さについて考えさせられたことがもう一つある。
それは、誕生日を迎えた翌日に祖母が亡くなったことだ。
年齢的にも体力的にも”そろそろ”という時期だったのは知っていた。
しかし、人が死んでしまってはなにもできない。
声を聴くことも、
ことばを伝えることも、
笑った顔をみることもできない。
私は人が後悔した瞬間を目の当たりにした。
人間の不条理と傷つけ合う憎悪にやるせない気持ちになった。
相互の理解や素直さが不足していて、変に意地張ってぶつかって失望して。
大人になればなるほどそれを修復するのは難しい。
だからこそ、与えられた時間でどれだけの人と肯定し合えるかが重要だとおもう。そして、何度も死にきらなきゃあっという間に時間が過ぎてしまう。
死ねるためには、「自分」でいなきゃいけないし、もっと人に理解され愛されないといけない。
「理解してよわかってよなんで」の繰り返しはエゴでしかなく、余計にじぶんを孤独にさせる。
どうやったら人と生きれるだろうか
そして分かち合って死ねるだろうか
与えられた時間をどう過ごすかは、未来の後悔をなくすことに比例すると思う
人生の正しいあり方なんてないからこそ、儚い人生を死にきりたい
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