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10時間目〜由来ひとつにも〜

名前の由来

誰しももっている大切な名前

生まれて死ぬまでずっと一緒に歩むことになる

その大切な名前に込められた意味を

説明することができるでしょうか。

早い時期から自分の名前の由来を

気になって親や家族に聞いたという人も少なくないでしょう。

私自身も、幼い時に母に尋ねてしっかりと由来を理解していました。

それは親からもらう最初の贈り物で、後々理解できるようになって嬉しさが倍増、いやそれ以上に感じられるもので

とにかく有無を言わさず、感謝すべきものだと思っていました。

先生をするまでは。

当たり前のことなんてないんだと思わされることはたくさんあります。

私のように、誰しも自分の名前の由来について興味を持ち

自分で調べていくのは当たり前のことだとばかり思っていました。

しかし、そんなことはなく、特段興味がないという子もたくさんいました。

自分の名前が嫌いだ

という子もたくさんいました。

「もっと可愛い名前がよかった」とか「ダサい」とか「可愛くない」とか

そんな反応も、照れ隠しの内だろうと思い

【自分の名前の由来を調べよう!】

という学習を通して

両親との絆

家族のほっこりエピソード

家族の温かさ

こういったことに触れられれば、感謝の気持ちや愛の素晴らしさに気付けるだろうと疑いませんでした。

低学年の生活科の学習で、こういった活動が割とメジャーにあります。やったことあるなという方もいるでしょう。

私自身も、小学生の時にやった記憶が薄ら残っていて、その時感じた温かい気持ちを懐かしみながら授業を計画していました。かなりウキウキだったと思います。

けれど、準備段階で打ちのめされました。

先輩からの助言は全く自分にはなかった視点でした。

「家族間に問題を抱えている子どもは、この活動を通して辛い思いをするかもしれないというのをしっかり踏まえて授業を考えろ。」

完全に自分には欠落していたその視点。

すでに、自分の中で勝手に出来上がっていたイメージに向かってスタートを切っていたのが恥ずかしくなりました。

目の前の子どもたちを置いてきぼりにして、自分が与えたい気持ちばかり先行して動いてしまっていたことにもショックを受けました。

気づいてすらいなかった自分。

恥ずかしくなりました。

両親との絆

家族のほっこりエピソード

家族の温かさ

綺麗な言葉を並べ、お題目のように子どもたちにも熱く語り、価値観を押し付けようとしていた自分の浅はかさ。

それから、もう一度立ち返って、子どもたちの状況を自分なりに整理してみました。

家庭環境が複雑な子。

一言でも、複雑さは本当に様々です。

両親が離れ離れになっている子。虐待の疑いがあると言われている子。親に対して暴力を振るっている子。連れ子であるとまだ知らされていない子。シングルで経済的に余裕がなく母親が荒れている子。親が酒乱の子。家族の健康状態が悪く家庭内でとても苦労をしている子。外国籍で本当の親ではなく親戚に預けられている状態の子。

少し立ち止まって冷静になっただけでも、たくさんの向き合わなければいけなかった自分の見落としに気づけました。

授業なんてできない。

できるわけがない。

知らないということは、罪なことだと思います。

知らないというだけで

できることもたくさんあるというのを実感しました。

今の自分にはできるわけがない。というか、そんな子たちの前でできることなんて自分には何ひとつないのではないかとさえ思いました。

先生、向いてないな。

その思いをしばらく抱えていました。

けれど、授業をする日は刻一刻と迫ってきます。

思い切って先輩に思いを打ち明けました。

先輩は、しっかりと受け止めた上で助言を与えてくださいました。

私たち教員は、それはそれはちっぽけな存在だと思います。

大勢の子どもの前で、偉そうに何かを与えようなんて思うのはおこがましいことです。

それでも、子どもには助言や機会が必要です。勝手に育つし伸び伸び育つものだけれど、正しい方法と用量で栄養を与えた方がもっと育つのが子どもです。

その可能性に関われるのが教員という仕事のやりがいであり難しさでもある。

その子の前に立つ資格なんてないんだという

ある種自分自身を傷つけるような思いを同居させながら、それ以上にその子がより良い方向に進んでくれたら、という気持ちを奮い立たせて立ち続けるんだと

そういった趣旨の助言でした。

すっと自分の中に落ちた感覚がありました。

先生の弱さと強さを今まさに見せられたような気がしました。

名前の由来

これを授業で取り上げることで腹がくくれた部分がありました。

「先生なんてすごいね。私には無理。」

こんなことを言われることが今までたくさんありました。

その時はただ単に感心されていると思っていましたが

おそらく言葉にはしないでも、人の前に立って何かを教えることの怖ろしさを少なからず私よりは感じていた人たちの言葉だったんだろうと今は思えます。

敏感で繊細な人の言葉

今はもっと違う受け取り方ができるようになりました。

以前なら

「そんなことないよ。」

と深く考えずに答えていましたが、今は違います。

「そんなことないよ。でも、僕もすごいと思う。」

痛みを分かる人じゃなければ

先生はできないです。

相手の痛みと自分の痛み。

その痛みがわからなければ、それは先生ではなくただのエゴイスト止まりだからです。

それを教えてくれたのが、「名前の由来」です。



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