アダムとイブと人間

「そんなの知ってるよ」と思う人がたくさんいるかもしれないけれど、

人類の起源

「アダムとイブ」

そしてその子供たち

「カインとアベル」

自分が子供の頃にその話を知って、ただの神話で(日本人は無宗教の人が多いですから)

子供心に、ずいぶん雑な話だなぁという印象だった記憶(笑)

しかしこの話の意味がわかってしまうほど大人になってしまったのは、何とも物悲しい。いや、悲観する必要はないのか?理解が深まることは素晴らしいことなのか?

人間は誘惑に負けてしまう生き物。

禁断の果実を食べてしまう。

人間は所詮、己が良ければ良い。

そして、自分の利益、自分が生きることが全てだという本能から、他人に対しての嫉妬心が生まれる。

血を分けた兄弟のカインとアベル。

血を分けただなんて、理性で理解するしかない。結局はただの他人。

自分じゃないヤツが、自分よりも先に認められたら

「自分が生きる」という目的の遂行の障害となる。

自分が生きることを全うする為には邪魔者は消さねばならない。

それが生き物の生存本能なのだ。

しかし我々人間は、理性を保って生きるという使命の元に、時に、生存本能に蓋をして制御する必要がある。

それができる人間とできない人間が居る。生まれ持っての能力の差異、育った環境の差異が大きい。

我々は、少しでも理性を保てる人間社会を形成していくように努力をしている。

それでも本能の部分は消えない。

窃盗、殺人、性犯罪。

いじめ、妬み。

被害妄想、優越感。

我々は、そういった本能を抑え込まなければならないことが、時に苦しみをもたらすこともある。

それでも、他人に危害を与える本能を抑えこまなければいけない理由とは何か?

それは、人類の知能は相手の気持ちを考えることができる知能だからだ。

カインはアベルを殺した。カインはアベルの気持ちを考えることはできなかった。

兄に殺されたら、どんな気持ち?

悲しいよね。痛いよね。寂しいよね。

残念だよね。

自分よりも先に認められた近しき者がいなくなれば、自分が認めてもらえる可能性は高まる。しかし、自分を認めてもらえる可能性が高まるが弟を悲しませ傷ませて失うという未来と、弟が先に認められるけれど弟と喜びを分かち合える未来と、どちらが自分にとっての幸せな未来なのか。人間とはそこまで想像して考える知能があるから。

自分が認められたければ、邪魔者を排除せずとも己が努力をすれば認められる可能性があると、そのことを理解するということも人間の特殊能力である「想像力」の力。

言葉もまだうまく使えない年齢の幼児が、お友達が遊んでいるおもちゃを奪うんだ。

思考は簡単で、「自分がそのおもちゃで遊びたいから」なんだ。

取られたお友達は、泣いたり、怒ったりするんだ。

取られたお友達が、取ったお友達を叩く時もあるし、取ったお友達が取られたお友達を叩く時もある。自分が欲しい物を手に入れる為に相手に暴力を振るうんだ。

それを見ていたお母さんが、

「ダメだよ。叩いたら、お友達が痛いよ」

「ダメだよ、お友達のおもちゃを取ったら、悲しいよ」

「そういう時は、貸してって言うんだよ」

と、教えるんだ。

お母さんに言われたからという理由で仕方なく我慢するところから始まるのかもしれない。でも、

「貸したり借りたりして順番におもちゃで遊んだら、お友達も嬉しい。お友達が嬉しければ、自分も嬉しい。争って自分だけ良い思いをするよりも、思いやって相手と良い思いを分け合う方が楽しい」

ということを理解し始める1ページに繋がるのだ。それが、カインが犯した罪から一歩抜きに出る人類。

1人の人間は、100年よりも短く生涯を終える場合が多い。だからせっかく精神が成熟しても、いずれ死に、また、未熟な知能の知識も思考もまっさらな新しい人間がこの世に生を落とすことの繰り返し。

だから、知識の伝授をしていかないと、人殺しのカインのままなのだ。

我々は、自分達が思っている以上に、自分さえ良ければ良い生物なのだ。その自覚を持ってして、どう生きるべきか、未熟な者への知識の伝達や思考のサポートの仕方などを含めて考えたら良いのだと思う。

お読みいただきありがとうございました。


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