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掌編 虫を産む女

掌編 虫を産む女

 目をカリカリと爪の先で掻いて、目頭に溜まる目やにをそっと取る。ぺたりとした小さなそれは、マスカラやアイシャドウが乳白色と混ざって小さな虫みたいだ。無表情のまま鞄の底でくしゃくしゃになっているポケットティッシュを取り出し、生み出したばかりの虫をこすりつける。ふと爪に目を落とすと先端のマニキュアが欠けていた。せっかく美しく装っていても、爪がこれでは台無しだ。もうこれからの予定を楽しめる気がしない。一秒ほど見つめ、諦めたように鏡に視線を戻す。虫を拭ったティッシュを鼻の頭と頬、額に押し当て浮いていた皮脂を落とす。そのまま丸めてポケットに押し込む。リップだけは丁寧に、濃く塗り直す。さっきまでくすんでいた顔が、色を取り戻す。トイレの個室からは低音の放屁の音、伸ばした爪がスマートフォンのディスプレイをたたく音、トイレの外からは駅の構内アナウンスと雑踏。腕時計に目をやるとまもなく二十時だ。表情を無くしたままトイレを後にする。
 改札の外には見慣れた男がスマートフォンに目を落としながら立っている。硬直した顔の筋肉をほぐし、男のもとへと向かった。
彼は私がいつも小さな虫を産んでいることを知らない。

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