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コロナ → テレワーク、そして、ライフワーク

テレワークでの仕事ぶりは自分次第になるんです

 コロナの影響でテレワークが日本でも本格的に浸透するのだろう・・・というつぶやきを先に書きました。

 コロナ期の、このテレワーク体験をもとに、日本中でテレワークが浸透して、恒常的にテレワークを選択する人が増えると仮定します。

 そうすると、次に送るのが、自分の仕事探しです。

 家で仕事をしていると、私の仕事ぶりに目を光らせている上司などはいません。だから、心がけ次第で、真剣に仕事に取り組むこともできますし、ぼーっとして怠けることもできてしまうんです。

 でも、怠けていると仕事が進みませんから、その責任を問われて、何らかのペナルティーがかかる。上司から注意を受けたりですね。
 こりゃやばいな・・・っていうんで、誰も見てなくても懸命にやる。でもまたちょっと怠けたり・・・。

 こんなことを繰り返していると、オレって何をしているのかな、とか。
 「オレの仕事って、上司に怒られない為にやっているのか。それとも給料をもらう為に、金のために働いているのかな」とか。
 「そもそも、オレのやりたいことって何だ・・・」とかね。

日大アメフト部が再開。方針大転換でスタートしたけど

 日大のアメフト部の事件がありましたよね。危険プレーをした選手がいて。それがコーチからのプレッシャーがあってしたのではないかと。それで、日大のアメフト部ってしばらく活動停止のようなことになっていた。
 それが、監督を外から招いて、指導者を一新しての再スタートとなった。その様子が、ワイドショーでドキュメンタリーになっていて。私それを見たんです。

 新しい監督は、かつての上から全て指示を出してやらせるアメフトを一新して、自主性のアメフトに切り替えたんですね。練習するもしないも、自分次第だよと。練習しないとコーチから怒られるとか、腕立て何回やれと罰を課されるとか。そういうの一切なし。
 そうしたら、チームが弱くなっちゃったんですよ。

 そういう状況で、選手たちは、
 「自由なのはいいけど、つい、怠けちゃうんだ」とか。
 「もう少し部の方で拘束してもらった方がやりやすい」とか。
 そういう意見が出て来る。

どなられるから、やるのか

 そういう様子を見ながら、ある時コーチが、チームの前で話すんです。
 「君たちの自主性を重んじる方針に変えた中で、こういう結果(試合敗退)になっていて、君たちがやる氣になるだけのモチベーションを与えるすべを持っていない自分を申し訳なく思う。」「だけどね、こう言いたい。お前たちのアメフトってその程度のものなのか? 俺にどなられるからやるの? どなられなかったらやらないの? その程度の情熱なのか?!」と。

 見ていて、私自身が身につまされました。
 「ああ、その通りだなあ、って。」

 自分の仕事もね、締め切りがあるからやるのか?
 わずかなお金をもらうためにやっている仕事なのか?

 自分の人生の「生きがい」とか、「生まれてきたからにはこれをやってやろう」っていう『志』とかね。おいらのそういうモノたちって、今、どこにいっちゃってるの? って、思ったのです。

 多分ですね、思いっきり生きがいの人生を謳歌している人は、私のこういう記事なんかは読んでいないと思うので、類友で、同じような経験の人が読むと信じているので。笑
 だから、今、あなたが『受け身人生の人だ』と前提で書き進めますけど。なんか、そろそろ、それやめないといかんよねって。人のせいにするのは終了。

自分の人生を生きる

 人生をですね、クリエイトしたいわけですよ。最後には。
 そう。テレワークには、そういう事を考えさせる要素が潜んでいると、思っています。
 だから、テレワークで、ちょっとだけゆとりができたり、時間に余裕があるのでちょっとぼーっとしたりすることで、ふと、自分の人生を見つめ直したりしちゃうんですよ。全員が全員でないにしても、何割かが目覚めていきますよ。この、テレワークという機会で。

 上司が見てようが、見ていまいが。
 お金が入ってこようが、入って来るまいが、どうしてもこれをやってしまう。これは追求しちゃう。こだわっちゃう。没入しちゃう。そういう仕事が誰にも必ずあるはずなんです。だから、生まれてきているんだから。
 何にもやるべきことがなかったら生まれてなんかこない。そんなにいい加減じゃないんですよね、命って。

 私の命、私のライフ。
 私のライフが喜ぶワーク、ワイフワーク。

 だから、コロナも拡散するんだけど、それと共に、コロナでテレワークが浸透して、テレワークの浸透で自分の人生を見つめなおす人が結構たくさん出て来ると思います。それがある種のトレンドになってですね、『天職』と『転職』が見直されてく。

 そして、人が、自分の真価に氣付いて来ると、全てのものの価値、その真価にも敏感になって。都市の生活だけが良いという、何者かに作られた価値観も崩壊し始める。同時に、都市自体も崩壊し始める。なにせ限界都市ですから。
 そうして、都市部に限らず、海とか山とか、自然と共にですね、陽を浴びたり、潮風を浴びたりして、ミネラルを補給しながら元氣に生きる、令和以降の新時代の動きが出て来るのだと思います。

 そんな感じ、しませんか?

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