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マザーリング・サンデー(母の日)に思う

イギリスでは、今日が母の日にあたります。
移動祝日なので日付けは毎年変わるんですが、例年、復活祭(イースター)の3週間前の日曜日に祝われます。

私が通っている教会では、従来、礼拝後に教会員が出口で待っていて、帰り際、みんなにラッパ水仙を配っていましたが、今年は趣向を少し変えて、礼拝最後の讃美歌を謳っている時に、子供たちが女性全員に、ひとりづつ手渡していくようにしました。

中学生くらいのイギリス人の男の子が、はにかみながらラッパ水仙を手渡してくれた時は、けっこう嬉しかったです。

よく考えたら、私も普通に結婚して出産してたら、この子くらい、いやもっと大きな子供がいてもおかしくないんですよね。

人生の中でいかに貴重な経験を逸したかを始めて感じた気がします。

仕事では大学生が相手だし、私にとって彼らは学業成績を評価する対象であり、その一方で、私の教え方が彼らから評価される立場でもあるので、母性が入り込む余地は(私の場合)ほとんど無いので気づきませんでした。

まぁだからといって、今さら結婚して子供が欲しいとはさらさら思いませんが(基本的に向いていないと思う)。

母親はもっと尊ばれるべき

私は「母性本能」があまり強くないのかもしれないと思うからこそあえて声を大にして言いますが、母親はもっと尊ばれるべきです。

出産したんですよ、お腹を痛めて。で、泣いてぐずる赤ん坊だった私達を育ててくれた人ですよ、母親と言うのは。
すごすぎ。

もちろん、実の母親を知らない、または母親に傷つけられた、つらい思いをしたという人もいるでしょう。

でも、憎しみや苦い感情は、なるべく早く捨てたほうがいいです。
ネガティブな感情は、自分を傷つけた相手ではなく、ただ自分自身を苦しめるだけです。

一方、実の母親を知る機会がなかったと言う人は、母親代わりになってくれた人に感謝しましょう。

継続して母親の役目を担っていなくても、つらい時に慰めてくれた、寂しい時にそばにいてくれたという人が、人生の中でひとりやふたりは必ずいるはずです。

感謝の気持ちは表さないと意味がない

私の場合は、幸いにも実の母がおり、年老いたものの今も健在です。

うちの両親は長い間、夫婦仲が悪く、父を見限らない母にいら立ちがつのって、私は反抗ばかりしていました。

そして、私は高校に入った頃から夜遊びを始め、あまり家にいつきませんでした(ディスコが全盛だった頃の話。なんか昭和だな)。にも関わらず、母から、ああしろこうしろと言われた記憶はほとんどありません。

家を顧みない父と家に居つかない反抗的な娘を、私の母は黙って待ち続けました。古風な人だったのだろうと思います。

そうこうするうちに、父は歳とってから若干態度も変わりました。

そして、私のほうは20代をほとんど家に寄り付かないまま過ごしましたが、イギリスで博士課程をやっていた30代前半の時、自発的に実家に一時帰省しました。母に会いたかったからです。

最終的には母の勝利なわけですよ。
ただ、今となっては母は痴呆が進行しつつあります。
そして、私は相変わらず遠方にいます。

たいした親孝行はできなくとも、会話をする、感謝の念を伝える、あるいは、ただそばにいてあげる、ということすらろくにできない状況です。

現状は仕方ないとしても、私の罪は、そうすることができた時にあえてしなかった、と言うことです。

愛情は表現しないと意味がありません。
親孝行は、親がいるうちにしておきましょう。