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こらえる日々から、自分を満たす日々へ

「やだな…もう、こんなこと、したくない。」

「なんでやってるの?」

「〇〇だから。」


私たちはどうして、やりたくない、やめたいと言いながら、ソレを続けてしまうのだろうか。

お金?世間体?誰かのため?一度決めたことだから?いつかのため?


一生懸命に何かをするって、とても美しいことだけれど、もしも自分を犠牲にしてやっていることだったとしたら、黒くて臭いものが体の中に溜まっていきそうで、ちっとも健全じゃない。

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私は以前、小学校で教員をしていた。期間は5年。図工専科として雇われたのだが、最終的には担任になっていた。

結論から書くと、私は教員の世界で、背伸びのしっぱなしで疲れてしまった。

これは別に教員の仕事について文句を言うための記事ではないし、教育業界について論じたいわけでもない。

単なる、私の内側の問題について書いていると捉えて欲しい。

私は、背伸びした自分に合わせて、いろんなことを勝手に我慢していた。

「先生は、こういう時、こうしなければならない。」

「子供たちに好かれるような(尊敬されるような)立派な人間であらねば。」

「正しいことを、理路整然と言えなくては。」

いろんなことを、「ねば」「べき」で考えて、とても苦しかった。

でも、私は本来、

「学校の決まりって、どうでもいいこと、多いな〜。めんどくさっ!」

「何が正しいかなんて、白黒はっきりつかないこともあるし、わからん!」

なんて思ってる人間だった。

なのになぜ、あんなハリボテを作ってしまっていたんだろう。

いつの間にか作り上げていたハリボテの自分は、内側にいる私自身を苦しくしていた。

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退職するときにはそういった矛盾がスッキリして、自分なりに

「私なりに、やれるだけ頑張ったよね。ここらで一区切りつけよう」

と思えるようになったけれど、先生になって3年くらいはずっと悩んでいた気がする。


「私がもっと「いい」人間だったら良かったのに。」

「もっと、仕事が速く的確になったら、楽になれるはずなのに。」

「もっと、子供達が夢中になれる授業ができたら。」

「もっと、ありのままの自分で、子供と向き合えたら。」

「もっと、話し上手になれたなら。」


理想の私は、私には遥か手の届かないところにいて、現実の私は、足りないことばかり。


理想に向かうための努力不足と、自分を責める気持ちと、追いつかない体力と。

なんだかもう、頭も体もグルグルしていて、寝言は言うわ歯軋りはするわ、朝は起きられないわで、「あー、仕事行きたくないなあ。」なんて呟いていた。



そんな日々が変わり始めたきっかけは、コーチングだった。

今から、6年半くらい前のこと。

(続きます)

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