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居場所のつくりかた

道端に、木陰を落とす木が一本。
それさえあれば、居場所ができる。
充分に。

初めてのトーゴで、車窓の流れゆく景色から目が離せなかった。道端にいる人々の、いでたちや生活のあり方があまりにむき出しだったから。

ケース1:カニと顎
アスファルトの道路沿い、女性たちが小さなカゴのようなものを3つ4つ地べたに並べて座っている。隣には何かが詰まった大きな麻袋。道沿いに点々と続く彼女たちの存在が気になって車を降りる。

ベナン人ガイドのキキさんが1人に声をかけ、麻袋の中身を見せてくれるよう促した。なんと中に入っていたのは、生きたままの小さなカニたち。藁のようなものと一緒に入って、ごしょごしょと元気にうごめいている。袋の中に押し込められている数を思うと絶句する。

何匹くらい欲しいかと聞かれるも相場が分からず、とりあえず適当な数を売ってもらう。女性は足元の小さなカゴの口を開き、足で挟んだ麻袋からぽんぽんと無造作にカニを掴んで押し込める。6匹、7匹、8匹・・十数匹も詰めると、細くて長い藁のような葉でカゴの口の網目を縫うようにすっすと綴じ、余った部分を折り曲げて持ち手にした。伝統工芸職人のような手馴れた様子と、生きたカニが蠢いているとは思えないほど機能的で静かなカゴの佇まいに惹きつけらる。


ホテルでおすすめの方法で調理してもらったら、豆を潰したようなペーストが添えられた。

なかなか思うように殻を割ることができず、試しに噛みつくと硬すぎてまさに歯が立たない。手間取っている私たちを見かねて、トーゴ人のウェイターが「こうやって食べるんですよ」と殻ごと噛みつく真似をする。「いやいや無理です。やってみて」と言うと、「なんでできないの?」と笑いながら、あっという間に殻ごとバリバリと噛み下してしまったのでびっくりした。

「下手に真似すると歯が欠けるので気をつけてください」隣にいたジャーナリストの岩崎さんがそっと言った。顎や歯の強さが段違いで、それはまるで生き物としての生命力の強さの歴然とした差でもあるように感じた。

ケース2:馬、そして髪あそび
首都のロメ市内にあるアベポゾという、温和な空気の漂う町をぶらぶら歩く。この町は海が近く、メインの通りから一歩入ると柔らかな砂の道が続く。ぺたんこのサンダルで踏みしめる砂の感触が心地いい。

木陰に繋がれた小柄な馬と、7-8歳くらいに見える子どもが佇んでいた。世話をしているというより一緒にいて過ごしている、という感じ。馬の方へ歩いていくと、砂の道で遊んでいた子どもたちが一人、また一人とキラキラとした瞳で近寄ってくる。フランス語は通じないけれど、身振りで馬の写真を撮らせて、とスマホを向けたら、わあっとはしゃいで集まり画面におさまろうと押し合いへし合いする。動画も撮れると分かったら、さらにはしゃいで飛び回り、次々とソク転バク転を披露して、もうスマホも目も追いつかない。

完全に遊び相手と認識され、何も考えずに彼らの身体的な遊びにまっしぐらに飲まれるように、おぶって担いで駆け回って笑っていたら、いつ間にか時間の感覚が消えていた。

気づけばすごい量の汗をかいていて、ぜいぜいと息をつく。大勢の男の子の中に一人だけ混ざっていた女の子が、膝に乗ってぴたりと身を寄せてくるのが愛おしい。いつまでもデジカメで自撮りする子、もっと遊ぼうよと元気に服を引っ張る子、ちょっと彼女を休ませてあげなきゃというジェントルマンの子、クールに馬のそばに静かに座っている子。

突然一人が私の髪をひと束軽く引っ張る。わやわやと笑って呟いて、みんなで四方八方に編み始めたので驚いた。活発でやんちゃな彼らが、手馴れた様子でおしゃべりしながらどんどん編み上げて行く。唯一の女の子と一緒に、彼らの中心にお姫様のように鎮座して瞳で笑い合う。

ヘアゴムがなくて残念に思う。綺麗に編み上げてもらったものの、直毛でボブ丈の髪の毛はあっという間にほどけてしまったから。
立ち上がって土を払い、エウェ語でありがとうをなんというか頭に入れてくればよかったと思いながらメルシーを繰り返し、散らばった荷物を集めた。
ジェントルマンの彼がみんなに声をかけ、すみやかに何一つ欠けることなくリュックに収まる。このまま、疲れたら休んでを繰り返しながら日暮れまで彼らと遊ぶのも悪くないと後ろ髪引かれつつ、またメルシーと繰り返しなんだか決然たる思いで彼らと別れた。道を曲がるときに振り返ると、何事もなかったようにまたみんなではしゃいでいた。


また大きな木の下で、もう少し大きい年齢の子ども達がみんなで髪を結っているのに出くわした。黙々と静かに集中してやっている空気感が伝わってくる。さきほどの彼らはこういう様子をふだんから見ていて、髪の毛は「みんなで編むもの」なのだろうなと思うと頬が緩んだ。


なお私はこの一年後、この同じ地のアベポゾでめでたくヘアサロンデビューし、8人の女性に編み上げてもらった。技術が上がるにつれ取り巻く空気はよそよそしくなっていったが、それが大人になっていくということなんだろうか。家族や友人に遊び半分でやることと、仕事の違いだろうか。それとも外国人である私への感覚の距離感だろうか。

いずれにしろ、もう一度また彼らに会いたい。太さがバラバラでも構わないから結ってもらいたい。だから今度はシリコンの小さなヘアゴムをポケットに忍ばせていくのだ、きっと。

木の下に、人がいる。
自若泰然、勇まず飾り気もなく。
それだけで成り立ってしまう。

だからってどうしてここまで心惹かれるのだろう。
気取らず無理せず構えず、何かの一部であるように、迷いのないように、静かに、過度に愛想を振りまくこともなく、ただただそこにいられる彼らのあり方に。

パブリックな場というのは、すなわち建物や設備の力を借りていることが多いような気がしている。物を売る、髪を切る、食べる、座って作業する。特に都心においては、人が公の場で立ち止まって自分の生身を晒している空間は、意外と限られているように感じる。

「みんな、”自分の顔”をしているわね。」
これほど、目にした光景に惹かれる理由を言い現した言葉はないと、何度も思い返すのは一緒に行った品の良いマダム木村さんのこの言葉。
誰一人、卑屈な顔をした人がいないわね、と。

人としての、存在感が強いんだ。
人工設備に守られなくとも、刻々と変化している自然をバックに、いや自然そのものの中にいて。人々の目に自分を晒している人も、その前を通りゆく人も、お互いに同じ温度で平熱で。

必要としない、そんなに多くのものを。
ないのが当たり前だから、なのかもしれない。
ただの私の勝手なノスタルジーかもしれない。

けれど、身ひとつでごく自然に、すっくといること。
それがただ、かっこいい。

厚い前髪は本心を隠したい心理の現れだと何かで読んだ。その是非はわからないけれども、確かにそうしたヘアスタイルは表情がみえづらい。
トーゴ、またはアフリカの人たちの多くは、主に髪質による理由から額はたいていむき出しだ。女性でも坊主頭なのは珍しくない。
潔くてかっこいい、逃げ場など必要なさそうな顔をしている。


「肌に触れる空気は、即宇宙」
航海をしていた人に言われてハッとした。オゾン層だとかがあるから、地球と宇宙の間には壁があるような気がしていたけれど、確かにそれは幻想で、外に出て頭に肩に腕に触れる空気は、スピリチュアルでもなんでもなく天空の宇宙から直接続いて降り注いできている。
なんだ、私だってむき出しなんだ。


木の一本あれば居場所ができる、その潔さ、構わなさ。
身ひとつでいても平気な心が、自分で自分の居場所をつくるんだ。

木陰を踏んで、目を閉じる。


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