バグダッド・カフェを見た

 結婚生活全然うまく行かない見知らぬおばちゃん二人が出会い、周囲の人々を巻き込みながらなんとなくいい感じになっていく映画。

 こう聞くと、ただの安っぽくて中身の無いドラマみたいな感じがしなくもないけど、その中身の無さをテーマ曲、映像美、劇中のその他いくつかのギミックで補っても余りあるまったりとした後味のある映画です。評価は色々分かれるらしいですが、私はこういう映画は非常に好きです。見ていて疲れないので。以下一応ネタバレ含みますんで。

あらすじ

 主人公である大柄なドイツ人女性のヤスミン(Jasmin)は、旦那との車でのアメリカ旅行中に喧嘩をして置き去りにされてしまう。砂に足を取られるような荒涼とした大地をひたすら歩いて辿り着いた先にようやく、荒れ果てたモーテル兼ガソリンスタンド兼カフェを見つけてなし崩しにそこに宿を取ることに。そのスタンドを経営している面々も冴えない変わり者ばかりで、気に入らないことがあればその度に怒鳴り散らす女主人のブレンダ、それに嫌気がさして家出をしたが、劇中まったく家には帰らずひっそりと双眼鏡でカフェの様子を覗き見しているブレンダの旦那サル、店の手伝いも自分の子供の面倒もほったらかしてバッハの肖像画の前でピアノを弾くことしかしないサロモ、唯一店番をしてはいるものの、暇があればハンモックで昼寝をしているカヘンガ、ファッションに夢中で男どもをはびこらせては遊んでばかりいる娘フィリス、ハリウッドから出てきたという絵描きのじいさんコックス、そしてモーテルの角部屋を借りてタトゥー屋をやっているくせにあまり一家と関わろうとせず、そのくせいつも影からものごとを静観している謎の美女デビー、などなどが心バラバラに過ごしている。

 ヤスミンは、旅の予定もなくなり特にやることも無かったのだがある日、自分の部屋に置き去りにされている掃除用具を見つけ、思いつきと善意からスタンド中の掃除をする。それを見た女主人ブレンダ、とりあえず勝手なことをするなとブチ切れる。ブレンダは、独り身でしかも(喧嘩別れの手違いなのだが)男物の服しか持っていないヤスミンのことをとても怪訝に思っており、その後も何かと一家にかまっては子どもたちを自分の部屋で好きに過ごさせたりする彼女に対して”自分の子どもと遊びなさいよ”と言ってしまったことに少し後悔を覚え、謝罪をする。それを機に次第にブレンダもヤスミンに心を許していくことになり、ヤスミンもカフェの手伝いを始めたりするのだが彼女は結局は観光ビザしか持っておらず…。

 と、大まかには以上のような筋を辿るわけだが、1時間半ほどの話の中で特に大きな事件が起きるわけでもなく、ただなんとなく皆が仲良くなってカフェの雰囲気が以前よりも改善、その結果カフェを利用する客も増えていってなんとなく楽しくなる、というだけの話である。

 そうした中にも勿論、物語を彩り観ている者に気づきを与える要素が散りばめられているわけで、自分で気づいたなりに挙げてみたいと思う。

コーヒー

 序盤ではコーヒーがカフェの状況を象徴している。

 ブレンダの旦那サルが出て行くきっかけになったのが、壊れたコーヒーマシーンの代わりを持ち帰ってくるのを忘れたことだというくだりがあるが、カフェにおける壊れたコーヒーマシーンというのは、本来の機能をまったく果たさずに各々勝手に過ごしている一家の姿と重なる。また、その代わりにサルが拾ってきた、元々ヤスミンが持っていてケンカ別れの際に旦那に捨てられたポットに入っていたコーヒーを絵描きのコックスが飲んだときには”濃すぎる”と言って吹き出し、新しいコーヒーマシーンで淹れたコーヒーをヤスミンが飲んだ際には”茶色い水だ”と言うなど、コーヒーの濃さに対する好みが真っ向から別れる。これも、元からそこに住み着くカフェの人々と異邦人であるヤスミンとの間にある壁を演出している。アメリカのコーヒーは概して薄いイメージがあるが、ヨーロッパは国によるだろうがきっとアメリカのそれよりは濃いだろう。この時点ではまだ彼らはヤスミンのことをただの客ぐらいに考え受け容れていないだろうし、ヤスミンも自分の境遇に対して受け容れがたい思いをしているに違いない。

 ちなみに壊れたライフルも出てくるが、これは結局直らない。というのはトドメの一発をキメるのではなく、まとまっていくその後の人々を象徴しているように思う。

ドイツ訛りの英語とマジック

 主人公のヤスミンはものすごくドイツ訛りの強い英語で話す。そして他の人と交わす会話も至極簡単に済ませている。

 ヤスミンは基本的に来るもの拒まずといった受動的な性格をしているため、彼女の持っていた服に興味を持って寄ってきた娘のフィリスや、ピアノを静かに聴いてあげたサロモなどはすぐに心を開いて彼女を気に入るが、何かにつけて怒鳴り散らし、自分というものを周りにぶつけてばかりのブレンダはなかなか心を開いてくれない。そんな彼女が前述の理由でヤスミンに対して少し心を開いたのをきっかけに、ヤスミンも受動的であることを止め手元にあった唯一の道具であるマジックセットを引っ張り出しカフェで披露するなどして客を寄せはじめ、それをきっかけに二人の距離が急速に縮まっていく。他のカフェの人々も引き寄せていく。

 マジックというのは言葉が通じなくても楽しめるもので、でもそれを人に見せられるようになるまでにはある程度の時間と努力が必要なわけで、そうしたヤスミンの能動的態度をブレンダが感じ始めて彼女もヤスミンのことを認め、受け容れたというように見ることができる。

デビーの役割

 タトゥー屋のデビーは、あまり冴えない登場人物が多い中でかなりのべっぴんで、セリフがほとんど無く、ヤスミンとカフェの人々の仲が縮まっていくのを常に少し距離を置いて眺めている。彼女が画面に映るときのカットも正面から映すことは皆無で、なのに美人なのでセリフがほとんど無いのにもかかわらずものすごく印象に残る、というかちゃんと顔が見たい、そんな存在だ。

 そういう布石を経て最終的に、物語のラストで一度強制送還されたヤスミンがまたカフェに戻ってきた際、他のみんなは輪になって大喜びしているのに一人だけ荷物をまとめて一言だけ”私には近過ぎる”と言い残しどこかへ去ってしまう。仮に彼女もそこで喜んでたりしたら、本当にただのハッピーエンドですごく興冷めする気がする。悪人がまったく出てこないこの映画で唯一和を乱す存在ではあるのだが、これだけ波風の無い映画の中だとこちらとしてもそういうやつもいるよね、わかるわかる、ぐらいにしか受け止めない。ヤスミンの肩にタトゥーを入れたのもきっと、”頼まれたからやった”ぐらいな感じだろう。でも、予定調和に留めないためのスパイスを効かせる欠かせない登場人物だろう。

なんかジブリっぽい

 自分で思っといて変な感想だな、とは思ってしまったけど(ファンタジーじゃないときの)ジブリっぽさもある。”耳をすませば””おもひでぽろぽろ””海がきこえる”とか、そういう日常系のやつで、ジブリのそういう映画もドキドキ・ワクワクというよりは予定調和的に物語が進んでいってなんとなく終わる、っていう部分に共通点を感じたのかもしれない。もちろんこの映画みたいな気怠さはないけれども。というかこの場合ジブリのそういう映画がバグダッド・カフェっぽいと言ったほうが整合性が取れる。

むすび

 私はまだ齢27のペーペーの若輩者なのだけれども、小学生ぐらいから親父に古い西部劇やモータウンなどの音楽を聴かされて、望月三起也の漫画を読まされ、そういうものをきっかけに映画、音楽、漫画、ジャンル限らず様々な作品に触れてきたこともあってか、最近のモノをなかなか受け容れられずにいる。見るには見る、聴くには聴く、読むには読むけど、最近のモノってもうなんか圧が暴力的というか、詰め込みすぎてるというか、自分の集中力じゃもう途中で嫌になってしまう。たとえば音楽でいうと、音楽性とか曲としては全然嫌いじゃないんだど、ミックスの段階で音圧を上げすぎて聴けなくしてるようなものとかが大半だ。某坂本慎太郎も言ってたけど、”最近の音楽に比べたらSuicideのが全然牧歌的ですよ”ということだ。何が暴力的なのかは、受け手による。

 今、これまでの日常が非日常になってしまったこういう現状で、心の安らぎを得るために見たい映画といえば私にとってはやはり”バグダッド・カフェ”のような、毛羽立った感情に滑らかにコンプレッサーを掛けてくれるような映画なのである。

 とまあ色々書きましたが、これらは私が個人的な印象として受けたことなので製作者が意図したとかしないとかは全然わかりません。でも、この映画にはこれ以外にもそういう場面々々を象徴するようなギミックはたくさんありましたので、そういうのを意識しながら見ると面白い映画だという話でした。かしこ。

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