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太宰治『斜陽』 - 生きる覚悟を持つということ

誰でも一度は自分の死を考えたことがあると思います。生きる力が湧いてこない。生きるのが辛い。そんな心の内を誰かに相談したところで、大抵の人は決まって生き続けることが正義だと語るんではないでしょうか。

「なぜ、生きるのか?」

この答えに対して、私は利他的な理由は簡単に見つかるけれど、利己的な理由を見つけることができていません。

欲もなく、生活力もなく、身勝手にすらなれない。生きる力がなさすぎる人間はどうすればいいのでしょうか。

姉さん。
僕には、希望の地盤がないんです。さようなら。
結局、僕の死は、自然死です。人は、思想だけでは、死ねるものではないんですから。
それから、一つ、とてもてれくさいお願いがあります。ママのかたみの麻の着物。あれを姉さんが、直司が来年の夏に着るようにと縫い直してくださったでしょう。あの着物を、僕の棺にいれて下さい。僕、着たかったんです。

太宰治『斜陽』(岩波文庫) p171

直司は自分が自死することを自然死と表現しました。この文章を読んだ時、この状態に当てはまる自分がいることに気づいて少しゾッとしました。


個人の死生観について考えるとき、私の観測上2種類の人間がいるように思います。

一つは、死にたくないという気持ちをベースに、「なぜ死ぬのか?」と考える人。

そしてもう一つは、死にたいという気持ちをベースに、「なぜ生きるのか?」と考える人。

これは遺伝子レベルでの違いなのか、ただ考え方の違いなのかわかりませんが、私はこの小説の主要人物であるかず子、直司、母親の三人は全て後者の人間だと考えています。

直司や母親と異なり、上原の子を妊娠したことで、強く、しぶとく、生きていく決心を固めたように見えるかず子ですが、もし妊娠していなかったらどうなっていたでしょう?

私は直司のように死を選択したんじゃないかなと思います。

「なぜ生きるのか?」と問う種類の人間は、生きるための利他的な理由を見つけられなければ死ぬんだと思います。かず子の場合は、最初は母親、母親が死んだら上原、そして上原に捨てられた後は自分の子供、と生きる理由を見つけていたのではないでしょうか。


このような人間はどうすればいいのでしょうね。かず子のように愛という本能に従えば生きる理由を見つけられるのかしら。

人を本能のままに愛することすらも難しくなってきた現代社会では、どんどん後者の人間は生きづらくなっていくんだと思います。

それも自然淘汰による自然死と言われればそれまでですが。

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