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3-1 マイクロソフト鈴木×筑波大横田

学生団体メドキャリさんとのクロスリバースメンタリング企画第3弾です!

本対談の概要はこちら


vol.3の対談メンバー
鈴木:MINDSメンバー/日本マイクロソフト株式会社
横田:メドキャリメンバー/筑波大学


人生観に影響を与えた、幼少期の出来事

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鈴木:幼少期の大きな出来事は母と別々に住むようになったこと。
青森の祖母の家で育てられました。家族に来て欲しいイベントはだいたいひとりでポツンと過ごす。これが結構人生観に大きな影響を与えているトピックの1つですね。

横田:へー!そうなんですね

鈴木:親の都合で自分が寂しい思いをしていることが許せなくて。”なんでこんな理不尽な生き方をしいられなきゃきゃいけないんだ、早く大人になりたい。”と小4くらいから思ってる。

周りとも話が合わない。「なんでこいつら何も考えてないんだろう」と。
ケンカやハブられてることも多かったです。人に対する接し方がよくなかったな、幼稚だったなと今になって思うんですけど。モチベーションは基本低めなんです。

横田:たしかに。本当ですね。

鈴木:中学では自分を変えたくて学級委員に手を挙げたのですが、自分のほかにもう1人、わざわざ手を挙げる変な奴がいました。結果は多数決で負けて、副委員長みたいになりました。でも彼とは馬が合い、”学年委員”という立場で―学校のイベントの企画立案をする―運営側に回って、人に必要とされる充実感からモチベーションがぐっと高くなりました。

ただ、中2の秋。年に数回しか会えなかった母が急に青森に来て、「今週いっぱいで転校せよ」と突然言われました。14歳にもなり母と離れて暮らすことに精神的にも慣れ、青森か東北のどこかで過ごし続けるんだろうと思っている頃に引き離されるという出来事がありました。

水曜にやって来て金曜に連れて行かれる、そんな急なお別れを経て青森を離れたんです。ここでも大人の理不尽に振り回されて苛立ちました。

青森からの転校だったので、栃木では「田舎者」といじられました。話すことだけでなく価値観が合わない。例えば、「コンビニであれを買う」「カラオケであれ歌う」と言われても自分の近くになかったから分からない。
加えて、価値観の違いを受容できない人達に腹が立ちました。「同じ日本に住んでいながらなぜバカにされなきゃいけないんだ」とイライラして、言われたら言い返し、殴られたら殴り返すような毎日でした。
でもおかげであいつ骨がある奴なんだと理解され、3年生の時には舐められなくなりました。

部活は、地元では部員12名ほどのテニス部のレギュラーだったんですが、転校後は都市部で競技人口も多い地域だったので、130人もいる部で。
レギュラー争いが熾烈すぎて落ち込んだりもしました。

やりたいことへの転換

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鈴木:高校については、母は先見の明があり、「これからはパソコンだ」と「プログラミングとか情報とか勉強しなさい」と言うので県立の商業高校に進みました。ただ、あまり興味が持てず、2年目からは興味のある授業しか出なくなるように。それからは最小労力で卒業するにはどうしたらいいかだけを考え、あとはバイトやバイクいじりをして過ごしていました。

小さい頃からアニメやタレント、演技をしている人たちが好きだったので、高3になり進路を考えた際に「声優の養成所に行きたい」と思い専門学校への進学を決めました。それが18歳の(グラフが上昇している)部分になります。

演劇自体はめちゃめちゃ面白くて、どハマりして毎日稽古に明け暮れました。
この時、「やりたいことをやる」ことに生きがいをものすごく感じ、周りがこうだからと流されて就活するようなことはしないようにしよう、と思うようになりました。

また、演劇は役の中で死に触れることが多くて、「生きる・死ぬ」ことについてよく考えるようになりました。自分の人生は1回きりだし、その1回をどう使うかは真剣に考えなくてはいけない。後悔しない1日を過ごさなきゃいけないなということを考えて稽古をしていました。

..と言いながら、専門2年の時、精神的に荒れる出来事がありました。

自分の先生と彼女の浮気が発覚し、かなり揉めた上別れてしまったんです。
真剣に相手と向き合ったのが初めてで、めちゃめちゃ精神的に荒れました。今思うとダサいんですけど。僕の大好きだった先生と浮気をした、っていうのがショックで、人を信用できなくなりました。これも僕の人生観にとって大きなポイントでした。モチベーショングラフでもかなり落ち込んでいます。
一生懸命お稽古してた卒業公演もボロボロ。
ご飯を食べれず倒れ、女に振られたくらいでと軽蔑される。
卒業式にも行かなかった。
しばらくの間自暴自棄になりながら、色々なバイトに手を出しました。
歓楽街のボーイ、歌舞伎町のバーテン、派遣のコンビニにポスティングに、時間を忘れられてお金が入って面白ければなんでもいい。辛い現実を忘れたかったんでしょうね、そんな気持ちなので長くは続かないんですけど。

マイクロソフトとの出会い

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鈴木:21歳の冬にそんな気持ちで入ったのがマイクロソフト(以下、MS)のコールセンターでした。
そこでお客さんと話すのが面白いのと、そこの管理をしているMS側の人と意気投合して、彼のアシスタントとして来ないか?と言われMSで働くように。

ただ24歳の時、芝居の夢を忘れちゃっていいのか、このまま死んでもいいのかとまた考える日が続き、もう一度養成所に入ることにしました。
その後は毎年のオーディションをたまたま勝ち抜き、3年目に事務所に所属して、いよいよデビューするってなったんです。これがものすごくうれしい。憧れてた業界で実際収録の現場に行く、声優さんとお仕事をする、それが夢のような時間だったんですが、実力がなくて仕事が取ることができませんでした。

それでモチベーションが続かなくなったのと、バンバン売れていく若い子たちが客観的に見ても自分より面白いことを感じる中で、一生食ってはいけないなと、きちんと仕事をしなければと悟り辞めることにしました。

MSの派遣は続けていたのでいくつか正社員のポジションを狙ったのですが、全く受かりませんでした。それでも全然できなかった英語を勉強しながら受け続け、29歳の時、たまたまお世話になっていた先輩に紹介されたポジションでめでたく正社員として合格できました。

「自分を肯定できるのは自分だけ」

鈴木:色々なことがありましたが、MSの正社員になるとか、声優として現場に出て行くとか、容易ではないことを叶えられたことに対して自信を持っています。

声優になりたい、MSの正社員になりたい、と行った時に「君ならできる」と言ってくれる人は全然いませんでした。でも当時僕が周りに言ってたのは「人間は月にも行ける」ということで。「月面に行くことに比べたら自分の挑戦はイージーじゃないか」と。

IT 業界では最近ムーンショットーケネディが「月に行く」と言った時周りには10年かかると言われる中達成した例ーが流行っているんですけど、自分はこのムーンショットを言い続けてたんだなと。

結局、自分を全肯定できるのは自分だけだと思ってるんです。僕の場合は親も親だったので、自信をつけるためにも自分で肯定しなきゃいけなかった。信じ続けることはものすごく大切だし、その人の人生も幸せの価値観もその人だけのものだから、自分の抗えない気持ちを押し殺すことなんてないし、それくらいやりたいことはやったほうがいい。

MSの社員になってグローバルの仕事をさせてもらったり、本をプロモーションしてもらったり。専門卒の人間がこの世界で上がっていくとは思っていなかったので、面白いなと思ってます。
職務経歴書的にはいいキャリアを描けているので、これからここ以外にどんな会社に行けるのかなと思って他の人の話を聞いてたりもします。

横田:へぇー!すごいなー!

鈴木:今はヘルスケア業界の担当営業なんですけど、ヘルスケアのお客さんのお手伝いにできることはないかなと思って今回この対談をやらせてもらっています。

横田:医療系じゃない学生で申し訳ないです

鈴木:いやいやそんなことはないです。笑

鈴木:自分という存在を正しく肯定すること。逃げを肯定するのではなく、自分が実現できるかどうかを信頼するのは自分だけ。ということを貫いて欲しいなと思っています。

横田:なかなか重い言葉ですね。非常にありがたいです。

鈴木:あ、でも横田さんくらいの時にこの価値観をもっていたかと言われるとそんなことはなかったです。20代前半は迷うこともあったし、職場で荒れることも叱られることも傷つけられることもよくありました。周りの人たちの支えもあって伸びた部分もあり、上司や同僚に恵まれたというのは大きかった。その人が支えてくれたことが大きな糧になってるなと後から思ったりしてます。

ぜひ「情けは人のためならず」ー自分のためにかけるんだという意味ですけどー、人に何かをやってあげるというのはやっておくと、考えてもなかった見返りがあったりもするので、ぜひやっていけるといいんじゃないのかなと思います!

横田:ありがとうございました。次は私のモチベーショングラフをお話します。

母の教えと”誰のために生きているのか?”という疑問

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横田:私は、ざっくり言うと小さい頃は”優等生タイプ”で、高校、大学とモチベーションが落ちてきた。という歩みになっています。
母親が教育熱心な人で「100点以外意味がない」が口癖でした。幼稚園〜小学校は完璧を求められ、児童会長をやったり、母に褒められるために生きていました
周りには優等生と言われるけれど、ふと「誰のために生きてるんだろう」と思ったりもしたのが12歳の頃でした。

中学受験も母のおかげもあり成功し上位をキープ。部活もそれなりにうまくいき、”なんでもかかってこい”という時期でした。

でも小6の時、担任にものすごい説教を受けました。大号泣するほどの。
「あなたはリーダーに向いてない。」「あなたほど無力な人はいない。」と。そんなことを言われたので、普通に生きてこれたのはみんなのおかげだったんだ、と落ち込みました。
中学校の時にも部活の代表になっていたのですが、先の影響もあり”どうやって人間関係をうまく築いていったらいいのだろう”と考えながら活動をするようになりました。

母の反抗心が強くなった高校時代

横田:高校生の時、部活内でいじめが起きたりして、人間関係の問題の責任を取る形で部長を辞め引退しました。

鈴木:辞めさせられたの?

横田:いえ、自らです。一緒に頑張ってた副部長は精神科に行くくらいに辛くなってしまい。毎日のように二人で泣いていました。同じ派閥の子も同時期に辞めたりしました。さらに祖母の死や進路の問題が重なり、モチベーションはとにかく下がってしまいました。

親は私が医学部に入ることを望んでいて、自分でも高1までは「医学部に入りたい」と言っていたのですが、自分には命を取り扱うような仕事は向いてないと思い直すようになっていました。でも一浪までは医学部受験にチャレンジせよと言われていたので、浪人の末落ちるという抗い方をしました。
そして流れに身を任せる形で今の学部に。

それまでは勉強だけできるような人間だったので「自分は今何をしているんだろう」と悩みました。
大学生向けのビジコンやセミナーの情報はよく見ていても「自分がそんなところへ行っていいのか」と参加ボタンが押せなかったり。2年生になり、さすがにこのままじゃいけない。小さな成功体験から積んでいこうとメドキャリや地域コミュニティに参加するようになり今に至ります。

鈴木:ありがとうございました。親に”100点以外は”と言われていたことへの反抗はすごく共感できます。うちの親も成績がいいのは当たり前でしょ、ということが強くて。子供時代の自分は褒めて欲しかった。が、褒められなかった。自分が親に肯定されていなかったこともあって、分かるなぁと思いながら聞いてました

横田:意外な共通点が。

鈴木:商業高校も、自分が選んだわけじゃなかった

横田:そうですよね、お母様に押されてとおっしゃってましたね

鈴木:親としては大学行かせるための予備校でもあった中、投資を無にする道を選んだわけですが、勝手に人を振り回してきた母に進路まで決められるのが嫌だったので、ものすごい喧嘩した末に東京に出てきて自分の行きたい専門学校に通うことができました。

横田:ちょっとずつ、”自分に出来るかもしれない”とか”うまくいったな”と思えることは増えてきました?

鈴木:ほんとちょっとずつですが、自分には出来ていないなと思いながらも肯定する、ということが出来るようになってきたかもなとは思います。

--3-2へ続きます-->


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