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2-1 パナソニック吉田×京都府立医科大 木田


学生団体メドキャリさんとのクロスリバースメンタリング企画第2弾です!

本対談の概要はこちら

vol.2の対談メンバー

吉田:
MINDSメンバー/パナソニック株式会社 コネクティッドソリューションズ社
木田:メドキャリメンバー/京都府立医科大学


吉田:子供の頃から一貫して、自分自身のことを自分で考えることが多いなーって思いました。ハイライトでお話しします。

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1.少しトガっていた小学生時代

吉田:子供のときはいけ好かない子供でした。論理的に筋が通ってない、とかそこ間違ってる、とかすぐ言っちゃうような子で、ハブられたり、苦労した時期もありました。

あとは学級委員みたいなのはずっとやってました。
なぜかと言うと、30人いれば30人、学級全員の顔と名前を覚えていた。あとは学級内で意見を集めるような時って必ず「言わない子」っていると思うんですけど、休み時間とか使って聞きに行ったりするタイプでした。いつも一人で読書してるみたいな子も聞けばいいアイデアをもってることをわかってたから。

そういうのは割と周りも見てくれてたというか、「あいつに任せときゃみんなの意見が集まるだろう」と思ってもらえてたんだと思います。

僕は福島の生まれで、外国に行くことなんて稀だし、帰国子女なんて本とかテレビとかの世界。そんな環境にいるから逆に海外に対する漠然とした憧れがありました。
当時小学校かな、ハリーポッターが流行っていて、ハリーポッターに夢中になる中で「世界ってどんななんだろう?」と夢憧れたのは覚えてます。

2.哲学に没入した中学時代

吉田:中学校からは野球部に入って陽のあたる生活もしてましたが、一方で哲学に入り込んで。例えば「次の朝起きたら夢かもしれないな」とか。
そういうこと思うことってありました?

木田:そうですね…。医療の勉強をしていると、認知症の実際の患者さんの意見などに触れることがあります。
統合失調の方が語る、(こちらからすると)妄想みたいな話も、彼らにとってはそれが事実でしかない。そういうには興味を覚えます。
「(本人にとって)あまりにも具体的に目に見えてると、それが真実で他の人がみんなおかしく感じてくる。」といった話を聞いたことがあり、自分が今見えてる世界も本当じゃないのかな?とか思うことがありました。

今自分が見てるように他の人も見えてるのかな?とか、他の人がみんなロボットみたいに見える瞬間があったりとかはします。

吉田:分かるな。中二病みたいな感覚、ありますよね。

そこから「自分とは何か」「生きるとは何か」をすごく考えるようになって。だから今回メドキャリさんとの機会も、医学を志し、人間とはなにかとか、「人が生きること」についてを仕事にする医者の卵の方々と話せるというのがすごく楽しみでした。

3.ビジネスに触れた高校時代


吉田:高校生の時は新聞部に入りました。そこが社会に触れる機会でした。
新聞の下にちゃんと広告費を出してて部費がすごく稼げたんです。一回発行すると50万円くらい。

どこが広告を出すかっていうと予備校だったんですよ。
予備校からすれば、高校生1000人にリーチできるメディアなんて他にないぞと。加えて親にもリーチする媒体であるというのが良かったらしくて。
そういう経験から社会を知り、ビジネスというものは面白いなと思うきっかけになったりしました。

ハンデから得た教訓

吉田:他に高校の時といえば、行きたい大学が東京にあったんですけど0.9点足りずに受からなかったんですよ。すごいショック。結局もう1年頑張って入りました。

自分の高校は田舎だったので、そこの大学のその学部には10年くらいだれも行ってなかったんですけど、大学に入ってから同級生に聞いてみると「結構その大学受けてたよ」「先輩に合格法を聞いてた」と。それを聞いたとき。あーすげぇなと。田舎にいるってそれだけでハンデだったんだなととっても強く思ったんです。

それ以来、どういう環境であればどういう情報が一番手に入りやすいのか、どういう環境に身を置くと自分の能力は伸ばしやすいのかをすごく気をつけるようになりました。挫折の中で得られた教訓です。

ニッチ好きな自分を再確認

吉田:大学でのもう1つの大きなカルチャーショックは、周りに帰国子女がたくさんいたこと。自分では英語は得意な方だと思ってたけど、何カ国も行ってきたみたいな友達がたくさんいてペラペラしゃべる中、自分は田舎から出てきている。それがショックでしゃべるのが恥ずかしくなっちゃったんです。

その後、英語がツールになるようなことをしたくてクリケットを始めました。マイナースポーツですが、誰もやらないところでレアな存在になりたくて。
自分でもニッチなもの選ぶのが好きなんだなと、再確認できました。大学ですごい人たちに囲まれていたからこそ、そういう立ち位置を築けましたね。

「間主観」

吉田:就職活動の時って「好きを仕事に」とよく言われるんですけど、疑い深い僕は自分の好きがなんなのか、それが本当なのか、も考えたりしました。

好きの前に”得意”や”向いてること”はなんだろうってことを立ち返って、ここにあるような質問を自問自答したり、家族や友達に俺ってどう思う?って聞いてみたりしました。

哲学的な話でいうと、自分のことって客観的には見れないけど”間主観”ーだれかとだれかの主観の中で形成される感覚ってあるよねーと。
同じものを見ても、僕は僕の色眼鏡で見るし木田さんも木田さんの色眼鏡で見る。でもそこに何かしら共通に見える価値観ってあると思うんですよね。
その”誰かから見える自分”を浮き彫りにしたかった。
自分を確かめるということは大事だなと思った。

「ジョハリの窓」って聞いたことありますか?
人間4つの窓があって、自分には見えてるが他人には見えない、逆に自分には見えてないが他人からは見えている部分もあるよねという考え方です。
僕はそこを明らかにしたかったんです。

木田:それが「今まで強みと思ってなかった部分に気付いた」ってやつですね

吉田:そうです。社会人になってからの経験でいえば、自分は人事が向いてると言われた時も、自分ではやると思っていなかったのですが、向いていると思ってもらっているのならばやってみようと。

(会社柄、)海外に行けると思ってたのに日本から出る機会がないし、仕事は大変だし、日本の中にいても自分ってこんなにできないんだと思って24歳の頃は落ち込んでました。
ただ、30歳になるまでに海外へ行かせてくれと上司にずっと言ってたら29歳11ヶ月でギリギリ海外赴任できたんですよ!

言い続けることは大事だと思ったし、赴任した時に初めて、海外に行きたいと思っていた小学生時代の自分を思い出して。夢は描いてみるもんだなと。夢を叶えるとか強く思うタイプではないんですけど、漠然とした意思は持つものだなと思いました。

海外行ってからグラフが落ち込んでいる理由は、仕事も同僚も違うし、英語は拙いしで苦労したためです。
”虹の向こうに行きたいと思って走ってたら雨にぶつかっちゃった”という表現を聞いたことがあるんですけど、まさにそれだなって。理想の先はものすごい苦労しました。
少しずつ経験を積み、今は順調にやれてるなという感じです。

木田:いやぁ、事前にも色々聞かせてもらってたんですけど、子供の頃の漠然とした気持ちって実は真理というか、立ち返って見てみると自分的だった。なんてことを思い出すという点で、振り返ったり分析するのに大事なのかなってすごく思いました。ありがとうございました。

中学受験を機に芽生えた医師への夢

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木田:続いて僕のモチベーショングラフについてお話しします。

なんでもそつなくできるという感じが小学校〜高校までなんとなくあったのですが、小学生って、背が小さいとか太っている子がいじられるというのがあるじゃないですか。自分がそれでした。ただ、あまり気にしてませんでした。今思えば笑い事にできるタイプだったのかなと思います。

あとは、周りに自分よりさらにひどいいじめがあったというのも、自分はマシだと思う理由だったのかもしれません。自分のことよりも周りのことが気になっていたけど、いわゆるボス、カーストの上の方のやつらに嫌われたくなくて口を出せなかったことに悶々とした、ということはすごく覚えています。

あとは、サッカーと卓球をやっていました。
チームプレーはサッカー、個人プレーの卓球。チームでやるのも、1人で突き詰めるのも好きなのは小さい頃のスポーツに発端があったのかなと感じます。

吉田:サッカーのポジションはどこだったんですか?

木田:
全部やってました。小学校はキーパーだったんですけど、身長的にキーパーができなくなってDF,中盤、FWにとどんどん前に出てきました笑

吉田:小学校の時から漠然と医師を夢にしてたんですか?

木田:
中学受験を通じて将来を考えた時に、”自分に出来ることの中で一番すごいこと、人の役に立つことってなんだろう”と子供ながらに考えた時に医者っていうのが漠然と出てきたのがきっかけです。

吉田:
受験もされてみて中学に行かれたんですね。

木田:親に言われたところもあり。
でも無理だと言われたところに補欠で合格して、「頑張りが報われた。勉強って楽しいな」と感じました。その時から最低限の勉強習慣はついたのかなと。

その後大きくモチベーションが下がったのは、大学受験に失敗したこと。
つまづいたことがない人生で、他の人は通らない1年間が生まれるんだと思って落ち込みました。ただ後悔はしてませんでした。高校生活も楽しかったし、運が良くなかったなくらいに思って。
浪人中は勉強に打ち込み、無事に推薦入学ができました。
推薦の場合は京都の地域医療の方に行かないといけないという制約はありつつ、奨学金もあったので決めたというところです

首席になり気づいたこと

木田:最初の1年間は、思っていた医学生とは違いました。数学とか物理ばかりで医学の勉強できない!と。

吉田:当初の予定はどんな感じだったんですか?

木田:医学書を読むなど”医学”に集中でき、受験勉強からは解放されると思っていました。実際は受験の延長戦みたいな感じだったのでモチベーションは下がってます。

2年目以降は医学の勉強が始まったんですけど、勉強の量が莫大で、今までの勉強量とは全然違うことに衝撃を受けました。受けたんですが、自分のやりたいことだから、肉体的にはしんどいながらも精神的にへこむことなく勉強ができました。その中で、気づいたら首席になっってました

吉田:すごい!

木田:ただ気づいてしまいました、学生の1位ってなんの意味もないんだなと。
例えば実習の時、話の掴みにはなるけどそれが特別扱いになるわけではない。じゃあ次何が喜ばれるのかと考えた時に、学生なのに研修医レベルのことができる、実際に助けてくれるということなのかなと思って研修医の勉強を始めました。

自身が発信したTwitterをきっかけに

木田:勉強以外のこともしなきゃなと思っていた時、コロナウイルスが流行しました。授業も無くなったのですが、いい機会だ、医学生というのを生かして何かできないかなと思ってました。

その中で、メディアやニュースが伝える情報は不十分ではないか?と医学生して見てると思ってきて、「医学生ならどう見るか?」というツイートを初めてみました。
一応2,000件ほどのいいね・RTはもらいました。
10万人くらいに見てもらえたみたいです。

そんなときにメドキャリの代表から「キャリアについて一緒に考えていかないか」と声をかけてもらい、新しいことをやってみようかなと思い入ることにしました。

吉田:誘われて入ったという感じなんですね。

木田:そうです、TwitterにDMがきて、話を聞いて、入ってからは5ヶ月ほどになります。メドキャリは挑戦してる人がたくさんいて刺激になります。

ただ同じタイミングで、父にALS(筋萎縮性側索硬化症)の疑いがかかり、
改めて思ったのは「医療は人を幸せにしてるのか?」ということです。

例えば”がん”
寿命として捉えていたものを”がん”として診断することで、本来ぽっくり死んでたはずの人が辛い抗がん生活を送ることになる、ということがあるのではないか?

と思ってしまいます。

自分に当てはめると、知識があるがゆえに”自分がこういう病気なのではとわかってしまう”不幸があるのではないかなと。最近は、幸せの形、医療っていうものがみんなにとっていいものなのか?を疑ってかかる、ということについて学びを深めています。

吉田:”生きるとは何か”や、”知識があることが逆に辛くなる”、というテーマはライフワークにしたいのか、メドキャリで考えたいのかというとどっちですか?

木田:世間の認識を変えていく、といったことは人生通じてやっていきたいことかなと思ってますね。

--2-2へ続きます-->


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