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打つか、打たないか、それが問題だ。

今朝、シドニーの友人と話をした。

シドニーでは、強制的にワクチンを打つことになりそうだと言っていた。
飲食店にもワクチンを打ってないと行けなくなるかもしれないと言っていた。

僕は自然からできているものをできるだけ体に入れるようにしている。

コンビニのお弁当は食べなくなって4年ぐらいが経つ。
ファストフードはかれこれ20年以上食べていない。

ポテトチップスなどのお菓子類もそれぐらい食べていない。
あっ、研修とかのリフレッシュメントで年に数回程度
お煎餅などのスナックを食べることはある。
大好きだった菓子パンも食べなくなって1年ぐらい。

ワクチンは、40年ぐらい打っていない。

現段階では、僕はワクチンを打とうとは思っていない。
なぜなら、ワクチンを打ちたくないから。
体の中に最近できたばかりのものを入れたくないから。

ロジックではなくて感情の問題である。
実にシンプルな理由。

このような感情が生まれてくるのには理由がある。
過去に長いこと使用していた薬によって自分の体が壊れていく経験をしたから。

それ以来、薬に対しての抵抗感が生まれた。
不自然なものを食べて生きてきたことを知った。
自分の心も体も食べたものからできているというのに。

これだけワクチンが必要だと言われるのには、
科学的な裏付け、打つべき社会的な理由、ロジックがある。

ロジックは事実とデータから結論を導く。
ロジックから感情は排除される。

でも、僕のロジックにおいては、感情が1つのとても大切な要素。
僕にとって、感情は、事実やデータと同じくらいに、
いやそれ以上に意思決定をする上での大切な要素である。

そんなものはロジックとは呼ばれないのかもしれない。

でも、僕、という人間においては、体と心があって一人の人間として生きている。
僕の中から感情を取り除くことはできない。
なぜなら感情も僕の一部だから。

感情というものが僕の人生を生きる上ではとても大切なものだと感じている。
僕から感情を切り離してしまったら、もう僕ではなくなってしまう。

なので、感情はとても大切なものである。

社会の合意より個人の感情を優先するなんて、反社会的な勢力と見做される。
ワクチンを打つ人からしたらワクチンを打たない僕とは、
一緒には生きていけないと距離を置かれてしまうことになる。

それでも打ちたくないと思う理由はなんなのだろう。
ワクチンが不自然なものだと感じているから。

ワクチンを開発したカリコ博士の弛まぬ努力には敬意を払っている。
不可能と言われたmRNAの研究をずーっと続けるには
信じるものがあったからだと思う。

そのような努力の賜物を快く受け入れられない自分は何様なのだろう。
申し訳なく思う気持ちがある。

ワクチンが効果を発揮してこの世界からなくなったと言われる伝染病がある。
もしもその時自分がアフリカにいても同じような決断をするのだろうか。

僕がもしもアフリカ人に生まれていたらと想像してみる。
今の心と体で同じ経験をしていたら、きっと拒むと思う。

もしも、全く違う経験と人格で生まれ育っていたら、
違う結論になるのかもしれない。
でも、そんなことは想像してみたところで分からない。

なぜなら、それはもう僕ではないから。

今、ここにいる自分の心と体が拒んでいる。
そして、今はまだ選択権が自分にはあると考えている。
選択権がある限りは打つつもりはない。

でも強制となったら、打つことになると思う。
打たなければ、死を選ぶということになるなら、生きることを選ぶと思う。

それは、もう自分のコントロールの及ばないことだから。
コントロールできないことに対してできることは受け入れることだから。

僕にできることもしくはできたことは選挙権を行使することである。
その結果が強制を選択することになるなら、それは因果応報である。

どうやら、今、自分の中にある境界線は、強制かどうかのようだ。
僕の意識は、コントロールできることとできないことを
見分けようとしているようだ。

みんなとのつながりが絶たれてどうやって生きていくかは、
そうなってから考えよう。

両親と姉はすでにワクチンを打った。
彼らの選択は尊重している。
今のところ家族関係は良好である。

ただ、今はまだ選択権が自分にあることに感謝しよう。

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