見出し画像

20200319 レポート第16回レタスマインドフルネスワークショップ7

(続きです)

苦しいことが楽になるのは良いことなんだけれど、それだけにフォーカスすると間違います。
だって、歳はとるしモノは壊れるし、みんな死んじゃうし。いいことばっかり追いかけても、一つも完璧なものはない。
でも、その完璧じゃなさ、望まない変化、そういうものと一緒にいようと思えれば楽になる。
でもね(ニヤリ)、楽になりたいために一緒にいようとすると、それは「楽を求めてる」ってことだから苦しくなる。

それまで荒れた生活をしていた人が瞑想するようになって、心が静かになればすごく大きな変化だけれど、それでもそのままずーっと静かで幸せかというと、瞑想や生活が頭打ちになったり、なんだかうまくいかなくなったりもします。時間をかければ右肩上がりに行くかといえば、そうではない。

他人と比べるなというのは無理で、比べてしまう心の動きは当たり前に起きることです。
だから、自分が他人と比べていることに気付きながら、その時に自分にできることを続けていくことです。

ただし、最善を尽くすという「最善」は自分にも他人にも決められないことで(逆に「よし、それが最善だ」とか「それは最善じゃない」と言う他人がそばにいると、とても危ないです)、これは自分自身に聴き続けるしかないんじゃないか。
自分が何をどう見ているか、それをきめ細かく見てゆくしかない。それも今、この時点でどうかを見るしかない。昨日の自分と比べるのでもなく、他人と比べるのでもなく。

瞑想のメソッドを混ぜると危ないです。
まず一つのやり方で、セオリー通りに経験を積み上げていった先に動体視力が上がってくる。
メソッドを混ぜてやると、あれこれと落ち着かなくやっているだけで盲点が見えてないままということがあります。
そして上座仏教がなぜ慈悲の瞑想や善行を勧めるかというと、心の視力が上がって自分の心をしっかりと見つめたときに、慈悲や善行できれいにしておかないとショックを受けてしまうし、ことによると心の事故が起きてしまうからです。

我々は自分の持っていないものを欲しがるんですけど、ゲームのようなもので手持ちのカードを活かしてどう遊ぶか工夫してみてください。

(続きます)