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レポート第16回レタスマインドフルネスワークショップ3

(続きです)

ところで、今「制御過剰が極まった時に(ブレイクスルー的に)受容が分かるということがあるのでは?」というご質問がありましたが、そのためには徳=善業が必要なのではないかと私は思います。

以前、「自分が安心したいならば、他人を安心させてあげるとよい」というお話をしました。

「業(カルマ)」というと宗教的な、自分ではどうしようもないものというイメージをお持ちかもしれませんが、本当はこれから変化させていくことが出来るものです。
私は因果論、原因と結果の法則を信じています。
完全に私見ですが、徳がないと現象から学べないが、徳があると一見自分に都合が悪い現象からも学べるのではないかと思っています。

受容は自分の心に起きた良いものを自然に表現できるということなので、実は「固執・歪み」をほどいてゆく鍵になるのが受容ではないかと思います。

受容が腑に落ちてくると、相当楽になります。
なんだかんだで、日本人は特に、みんな制御過剰で暮らしているんですよ。
制御がゼロの人はいなくて、制御の力が軽い人でも固執や歪みを持っていたりします。それに自分自身で気づくのは難しいから、どんな人でも受容という要素について知っていてほしいんです。

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休憩時間中に出た話題からつづけて、大友講師のお話が始まります。

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「水のように生きる」 大友風太郎

私たちはサマタ瞑想(集中力の瞑想)とヴィパッサナー瞑想(智慧の瞑想)を分けて考えていますが、この二つは区別のしようがない部分も大きいんです。
例えばろうそくの炎を見つめ続けるトラタク瞑想と、おなかの膨らみ縮みを観察し続けるマハーシ式の瞑想では、やっていることとしてはほぼ同じ作業です。
しかし、その作業を通じてどこに行きたいかという、目的が違う。
自分の欠点が盲点に入っていると、自分でそれに気づくのは困難です。瞑想の力でそれに気づく。サマタでもそれができる人はいますし、ヴィパッサナーをやっていても気づかない人もいますが、しかしヴィパッサナー瞑想をやっている人の方が気づきやすい。

「心の動体視力」が上がってくる、とわたしは言っていますが、自分の心の状態にきめ細かく気づいてくるんですね。
普通の人はいつでも自分の本心から目をそらして生きています。
その本心、盲点に気づくにはどうすればいいのか。
これを見るために必要なのは、ただ「それたら戻ってくる」の繰り返しです。

(続きます)