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VOl.4「あの公園から見上げるソラと、介護士シドの日常」

#事実に基づいたフィクション  
#東京の公園 #健康寿命 #公園の楽しみ方 #認知症 #介護の職場 #60代の生き方 #やま #山下ユキヒサ

「あの公園から見上げるソラと、介護士シドの日常」VOl.4

(1814枚・4.5枚)

※この話はシリーズものです。

「恋するきっかけ」

10メートルも行かず、僕は足を止めた。
いや、止まってしまったのだ。

10メートル?
いや、その半分だったかもしれない。

私たちの体を構成する「部品」は、それぞれがかなりの重量を持っている。体重が五○キログラムの人であれば、頭は五キログラムほどもある。足は一本あたり約一○キログラム、腕も一本四〜五キログラムほどあり、意外なほどずっしり重い。
私たちは日頃、自分の「部品」の重さを自覚することがほとんどない。これほど重いものを毎日「持ち運んでいる」にもかかわらず、意外にもそのことに気づかないのだ。
頭や手足は、肩や背中、臀部の大きな筋肉で支えているため、重さを感じにくい。…中略…また、生まれてから今に至るまで、必要な筋肉が必要なだけ鍛えられている。体は、自らの「部品」を持ち運ぶのにもっとも好都合に発達するからだ。一方、私が初めて医療現場に出たときもっとも驚いたのは、まさに「人体がいかに重いか」という事実である。
「すばらしい人体」
あなたの体をめぐる知的冒険 山本健人


自分の身体の重さに圧倒されていた。
それはつまり、鉛が溶け込んでしまったような、動くのを拒絶したような全身の筋肉。
自分の筋肉の現状を突きつけられた。

使わないものは衰える。
いかに走るという行為をしていなかったか。思い知った。

夜勤で夜通しフロアを歩き回っても平気な身体が、外を少し走っただけで音を上げた。

室内の平たんなフロアを歩くのと、外の凸凹を走るのとでは、使う筋肉が、運動量が格段に違うのだろう。

さて、歩くと走るという行為の違いは何か?

歩くとは、常にどちらかの足が地面についた移動方法だという。

また、走るとは、両足が同時に地面から離れる・浮く・ジャンプする瞬間がある移動方法。

これが違いだ。
このことは着地時にひざや足首などにかかる衝撃の違いを意味する。

歩く場合は体重の約1.5倍の衝撃があり、走る場合はなんと体重の約3倍といわれている。

走る方が着地する際の負担が大きくなるため、走る方が足を支え守る筋力がより必要となる。

だから、走る方が辛いんだね。

少し走っては休み。また走っては休みを5回ほど繰り返し、その日は終わった。

このままじゃダメ。
少しは走れる身体、地面から少しでも両足が離れるように。

それからは機会を見つけ、公園を利用するようになった。

少しだって、笑っちゃうぐらいの短い距離でもいい。時間だって5分でもいい。

大切なのは続けること。
そのためにはとにかく始めよう。
そうすればきっと走れる。
僕は信じた。

これでも僕は、中学・高校時代は全国レベルのアスリートだったがです。
高校時代は毎学年、全国大会に出場し、入賞したこともあるがよ。
(土佐弁)
えへん。
心にポッと、小さな挑戦の火が灯った。

出勤の行き帰り。
時間があれば公園で運動。
それが自分の決め事になった。

最初はイメージトレーニングのように、あの頃、17歳の自分の走りをイメージしながら走った。

外でのトレーニングのとき。谷間の校内から、あの蛇行する山道をスカイラインまで走り登った。
あの頃は、よく飛んでたなぁ。特に下り坂では。

三、四十人にもなる部活の仲間や後輩たちと共に走る。
タッタッタッと、みんなの靴音がアスファルトにこだまする。
路面を弾くような走りを、思い出す。
あの頃の未来の姿が今、この青空の下にある。

よろよろのフラフラで、とりあえず普通に歩くよりは、速くは歩いている。そんな姿がソラの下に。

17才と63才。
そのイメージと現実に苦笑しながら、悲鳴を上げる膝関節をなだめながら。
とにかく、両足を交互に動かす。
息が上がる。もうダメというところまで行き、歩きながら休んでは、また動き出す。
決して立ち止まりはしない。

動きは遅くても、挑戦する心はあの頃と変わっちゃいない。
そう、17才の僕とね。
なんだかスガシカオの「プログレス」が耳の奥で聞こえるよ。

そう、あと一歩だけ前に進もう


それがこの公園を、頻繁に利用する始まりときっかけだった。

公園に立ち寄るのは仕事のある日だけという条件付きながら、僕はここの常連さんとなった。

それからこの公園への恋までは、もう目と鼻の先。
一直線だった。

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