VOL. 10 「あの公園から見上げるソラと、介護士シドの日常」
#事実に基づいたフィクション #東京の公園 #健康寿命 #公園の楽しみ方 #認知症 #介護の職場 #60代の生き方 #やま #山下ユキヒサ
(3619文字・9枚)
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公園入り口近く、坂道を自転車で下っていた。
時刻は午前11時。
向こうから女の子が坂を登ってくる。
よく見ると半袖のTシャツに短いキュロットスカート。
「子供は風の子」とはいうが、一月に真夏の格好だ。
大丈夫かい?
寒がりの僕は心の中で声を掛けた。
公園で夢中で遊んでいるうちに暑くなったのかな。
前回お話しした。
認知症の中心的症状である見当識障害。
さっきの女の子がもし高齢女性なら、まず季節感のない服装に違和感が生まれる。
加えて足取りが不安定というのなら、運動して体温が上がり薄着になったという線は消える。
すると認知症である確率は高まる。
この寒い季節、高齢者でコートを着ることもなく薄着、しかも足取りが不安定。そんな姿を見かけたら、保護の対象かもしれない。
逆に足腰達者で元気な認知症の方もいる。そうなるとかなりの距離の移動が可能。
行方不明者が見つかると、そんな遠くの場所まで、と驚く場合がある。
2021年の1年間で、警察に届けられた行方不明者のうち、認知症やその疑いで行方不明になった人は1万7636人。
統計が開始された2012年から9年連続で前年を上回り、21年は過去最多の数を更新したという。
「1万7千人以上の認知症の人が行方不明」という数字は驚きだ。
ただ、この数字は行方不明の届け出が出された数で、この内73.9%は当日に見つかっているという。
そして99.4%の方は1週間以内に見つかっている。
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さて、公園に着いた。
歩き始めると、どこからか声が聞こえる。
「もーいいかい」
「まーだだよー」
「かくれんぼ」をして遊んでいる子供たち。見渡すと、いくつもの別々のグループがやっている。
この公園、子供たちが集まる時間帯なら、いつでも見られる光景だ。
さすがの伝承遊び、明治、大正、昭和、そして平成生まれの大人たちも、子供時代にはみんなやったのだろう。
小学校が令和生まれの子供たちだけになるのは、あと8年ほど。
令和元年生まれの子供が、最上級生の6年生になるのは2031年の4月だ。
時代は流れてる。
遊んでる子供たちを眺めながら、
自分もやったな〜
懐かしいな〜
そんな思いにひたる。
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隠れる人。
見つける人(鬼)。
隠れた人を探し(捜し)見つける。シンプルなルール。
いつでも、どこでも、誰とでも遊べる。
知らない子供同士だって遊んでいるうちに仲良くなる。そこに大人が加わっても楽しめる。優れた外遊びだ。
かくれんぼ。
木陰に隠れている男の子。そのすぐ脇を通った。
小学5年生ぐらいかな?
鬼の動向を真剣に追っている目。
その眼差しはまるで映画で観るスナイパーだ。真剣な表情がとてもいい。ワクワクドキドキの、彼の鼓動まで聞こえてきそうだった。
真剣に楽しんでいる感じがびんびん伝わってきた。
もし彼に声をかけても、一度やニ度では気付いてもらえないだろう。それぐらい遊びと一体化している。
さっき僕が懐かしいと感じたのは、単に昔やった外遊びの記憶ではなかった。
きっと、一つのことに入り込む「没入体験」のことだ。
何もかも忘れ、夢中になって遊ぶ感覚こそを、懐かしいと感じたのだ。
公園で出会う少年や少女たちは、こんなにも素晴らしい楽しみを手にしている。時間を忘れて没入する喜びだ。
それもいとも簡単に。まるでポケットからひょいとアメ玉でも取り出すくらいに。
きっと小難しい手続きなどは無縁なはず。
「じゃ、かくれんぼでもしない?」何人か集まった仲間たち。きっとそんな一言で、気軽に始めたに違いない。
フローは、「時を忘れるくらい、完全に集中して対象に入り込んでいる精神的な状態」だという。
それが幸せだ。
時間を忘れるぐらいの集中力。
遊びに入り込み、喜びの塊になって走り回っている子供たち。それは幸せなフロー体験だ。
幸せな彼らを身近に眺めて、僕も幸せな気分になる。
隠れる者は隠れることに集中し、見つからないことに喜びを感じる。
目つける者は見つけることに集中し、見つけることに喜びを感じる。
楽しい時間はすぐに過ぎる。子供は遊びの天才だ。
公園には天才がゴロゴロいる。天才を眺めに公園に行くのも、悪くない。
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さて、かくれんぼである。
もちろん鬼に見つからないように苦心する。そこに生まれるハラハラドキドキがある。これがこの遊びの醍醐味だ。
だが、うまく隠れすぎたり、鬼がなかなか見つけてくれないと、つまらない。
簡単に見つかりたくはないけれど、永遠にずっと隠れていたいわけでもない。
隠れている者が発する「あーあ、見つかっちゃった」の言葉の裏には、見つけてくれた安堵と見つけられたというある種の晴れがましさもあると思う。
この遊びの奥底には、人の心理に働きかけるような、人の心の奥底をくすぐるような、そんな隠れた別の魅力がある。
キーワードは、
「探されている自分=愛されている実感」。
かくれんぼは、愛されている自分を擬似体験する遊びかもしれない。
すると鬼は、見失った仲間を探す、愛するという擬似体験をしているのかもしれない。
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きっかけになるような話がある。それは以前、知人の女性が話してくれたものだ。
幼い頃、家族と遊びに出かけた先、例えば遊園地やデパート。
そこで迷子のアナウンスを聞き、そのアナウンスに憧れたというのだ。
だから、自分も迷子になりたい、と。
最近では随分と減ったかもしれない迷子のアナウンス。ちょっと思い出して欲しい。こんな感じだ。
上記のアナウンスはすでに迷子が保護されたもの。逆に迷子を探すために来客全体に協力を求めるアナウンスもあったはず。
ただそれは防犯上よろしくないのかもしれない。
さて、女性の話。
「何かね、自分が探されていることに憧れたのよね」
「自分がいなくなって、親が真剣に自分を探している姿を妄想してた」
「アナウンスを聞いて、探してもらってる子がうらやましかった。そのとき、自分も迷子になりたい、って思った」
人が何かを探す(捜す)というのは、まず何かを見失ったという現実がある。
そして、それが自分にとってどれほど大切なものかによって、探すという行為の真剣味が違ってくる。
自分にとってかけがえのないものは、どんな苦労をしても見つかるまで探し続けるだろう。
そうでなければ、探す時間や労力を計算して行動する。ある程度探して見つからないものは、仕方ないと諦めるかもしれない。
自分が真剣に探されているという実感は、その対象者の自己肯定感の一つ「自尊感情」を高めることにつながる。
自尊感情とは、自分は尊い、価値がある存在だという感情。
知人の「迷子への憧れ」とは、自分を大切にして欲しいという無意識の現れだったのか。
また、捜されている自分を想像することは「自尊感情=自分はとても大切な存在」を高める感覚なのかもしれない。
一言で言えば、愛されている実感だ。
「迷子になりたい」とは、とても幼い発想かもしれないが、とてもピュアな子供らしい感性だと思う。
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