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その先の道に消える 中村文則

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私は人生で緊縛師に2人あったことがある。

先日、縛られる体験と縛る体験をしてきた。

縛られた観想は瞑想や禅に近い。心を洗う作業に近い時間だった。

諦めと受け入れ。

縛った感想は、あんまり楽しくなかった(笑)

まぁプライベートでやったわけでなく

ちゃんとしてる場なので、性と生のアートを

ひどく閉鎖的な場所で苦しみながらも見える光を見せるには、、

って感じでした。主体は縛られる側の美学なんだなぁと思いました。


そして本作である。裏表紙の解説に【緊縛師の死体】と言う言葉が出ていて

タイムリーなので買って読んだ。

そして思い出した。中村文則だ。。。教団Xの人だ。。。

面白いんだけど疲れるんだよ。。。この人の文。。。

まぁほぼ一気読みでしたが。


私は普通のSMくらいなら楽しめると思います。

自分の事を好いてくれている女が、自分の為に苦痛を我慢しているってのは萌えます。まぁ支配欲なんてみんな多かれ少なかれあるからね。

でもそんな簡単なもんじゃない。

四肢の自由を奪うと言う物を拷問や性行為、調教や芸術にまで日本はまたいでしまった。

神道に天皇や聖書にクルアーン。すごいところまでこの物語は進みます。


麻縄の緊縛からそこまで行っちゃうのか。と。

もう殺人ミステリーとして面白いじゃなかったです。

きっと歪んでしまった人、壊れてる人がいると思います。

そういう人たちのカウンタカルチャー感が面白かった。


射精をしたら気分最悪になる。男は充電式だ。


っという場面があるのだけど、

あー俺は違うなーっと思いました。

きっと好き勝手やっても良いのならば

ずーーーと遊んでると思う。

苦しめばいい。俺の事を一生苛んでしまえばいい。


SMカルチャーはそんなに暗いカルチャーでも無くなったけど

それでもまだまだな日陰。

まぁそれで、それが良いんだけどね。


生死感がバグってるとハマるんだろうなぁ。

ただこの本ですごく残ってしまったのは


【信仰と学問がぶつかる】


と言う言葉。

信仰は自分本位だけど

学問は客観的事実だ。

どっちが正しいも比べる事もできない。

その時に応じて自分の正解を探さなければいけない。


神にすがりたくないな。


感情は信仰だ。

羞恥心や怒りなんかも育った環境や国、文化で偏見を作られたに過ぎない。


そこで苛まないために学問があるが、学問は生きる意味を示さない、

むしろ生きている価値なんてない、と言う方向に向かう事すらある。


信仰と学問ならば、信仰のほうが絶対に人を救っている。。のかもしれない。


とりあえず痛い汚いNGでSMをしたくなった。

痛みとか身体的苦痛は求めてないんだよなぁ。


滾る物語だった。

後半では遺書的なもので物語は進むのだがその内容が良い。

壊れてる人はおろかで、歪んでる人は怖い。


リアルな世界でマジで悪趣味な遊び方する人もなんか見たけど

そういう世界の話。


中村文則らしい文体ではあったけど、物語的には目新しさを感じた。

5年後に読んで自分自身、感想がどう変わるかが楽しみでならない。

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