二番煎じですが何か?
ここ数年、いくつかのコミュニティに所属させてもらっていた私の心のなかに巣食っていた、でも見て見ぬふりをしていた感覚「二番煎じ」。大切にしまっておいても意味はないし、だけどもアウトプットするほど消化できているわけでもないし…
そんなもやもやは残るが、今ある感情をありのままに書き連ねたいと思う。
思い返せば、この「二番煎じ」の感覚はずっとずーっと昔、小学生の頃まで遡る。
当時、「二番煎じ」なんていう言葉は知る由もなかったけれど、ステキだな、とか、いいな、とか思う友達の真似をすることが得意だった。例えば、字の書き方とか、持ち物とか話し方とかジャンル問わず、自分が、いいねと思ったものは取り入れたい!そんな純粋な気持ちで悪気もなく真似っ子していたし、真似っ子が得意だったのだ。そんなある日、その頃の友達に「真似ばっかりするよね」とものすごーーーく嫌そうな顔で言われた。悪びれもなく真似っ子していた私にしてみれば青天の霹靂。真似っ子することってダメなんだ、と強烈に思ったことを覚えている。
たぶん、「二番煎じ」に敏感になったのはここがきっかけ。真似してるわけじゃないよ、と一生懸命アピールしながら過ごしていた時期もあったような…
時は過ぎて大学生時代。臨床実習がどうにもこうにも上手くいかなくて、思いついた作戦が「指導者のマネをしてみよう。そうすれば何か分かることがあるかもしれない」と言う短絡的なもの。どういうわけか、私は真似をするのが得意らしく、指導者からは、「真似がうまかったから」という理由で成績がぼろぼろだったにも関わらず何とか実習に合格できた。
この頃には真似っ子ってだめだよね、っていう幼き頃の思い出はすっかり忘れていたのだが、心の何処かに真似することっていいの?悪いの?といった葛藤が巣食っていたような気がする。
こんな過去があって、今。
やっぱり私の中でパイオニアに憧れがあるし、正直、上下関係でいう「上の存在」と認識している。どんなに私が努力してできるようになっても所詮「二番煎じ」やもんな、と二の足を踏む自分もいる。
そんな私が今、思うことには。
市民権を得ている学問だったり、伝統芸能だったりは二番煎じどころか何人もがその技術を習い広めているのに。
私が実際にやろうとすると、自分に「二番煎じ」を感じて自分自身にNGを出してしまう。
もう一つ。二番煎じができるほど、その技術や知識を得ることも才能の一つであるということ。私もミーハーな方なので、極められたものってほとんどないに等しいのだが。それでも、自分が自信を持って「二番煎じレベルでできます!」と宣言できるものって、ほんまにめちゃくちゃ努力したものがほとんどなんだよね。
そう思えば、「二番煎じ」が本当にだめなのか?という気さえしてくるような…
真似ができるのも才能だよって言われたこともある。それくらい相手のことをよく見てるし、知ろうと努力してるんだよね、って言われた気がする。何でそんな話になったか忘れたけど。
まだ、二番煎じの私を盛大に世に送り出すほどの勇気はないけれど。
パイオニアは最大限の敬意をはらっていることに変わりはないけれど。
二番煎じでもいいやーん、最高(´∀`∩)↑age↑
って、自分が自分を癒して認める作業が大切なのかもしれない。
答えでなくて最後のまとめ雑くなった(笑)