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年をとってからの親とのつきあい方

昨日のとりとめもない文章に「スキ」をいただいて、少なからず驚いている。
noteは優しいところだなと思った。
今日は昨日の記事を踏まえてのものなので、良かったらそちらを読んでから読み進めていただきたい。


*     *     *

昨日の記事を踏まえて、なぜ今日は「年をとってからの親とのつきあい方」なのか。
それは私のさびしさの原因の一つが「親」に違いないからだ。

父は3年前に87歳で亡くなったが、母は今年85歳、年の割に若く見えるし元気である。
元気で何よりだが、ここまでつきあいが長いとお互いどのくらい距離を取ったらいいのか分からないのが問題だ。

そもそも仲は悪くないので、何かと関わりが深い。
父がいなくなってから3年間、母は一人暮らしだった。
実家は自宅から車で数分のところなので、私はほぼ毎日顔を出していた。

毎日通うこともないのだが、それまで一人暮らしの経験がなかった母のメンタルが心配なのと、元気とはいえなにぶん80を過ぎているので何か困り事があったら大変と、ついつい話し相手に通う羽目になっていた。
私がほぼ家事手伝いの身で、時間があったというのもあるけれど。

私が勤め人で時間に追われていたなら、母もここまで当てにしなかっただろう。
しかし、暇にしていると思われ何かと用事を頼まれるようになった。
母が免許を返納してからは、車での送迎も多くなった。
用事を頼めなくなるので勤めに出られたら困ると言われたことすらある。

もちろん、その都度、あるいは思い立ったときにお礼を包んでくれることもしばしばだった。
だがしかし。
こちらとしてはお金で解決できることではないと思っていた。
簡単な用事に見返りを求めたくはない。
家族なんだから、変な気は使ってほしくない。
でも、それが1週間のうち2日、3日続いたりすると、こちらも自分の用事が後回しになる。
友人からの誘いを断らなければならないこともあった。
たまにならどうということもないが、その状況がずっと続くと3回に1回くらいは断りたくなる。
でも、無理をすればできなくもないことを断るのもかわいそうな気分になってしまう。

これが若いときなら親にも自分でなんとかしろと言える。
でも、年齢のせいでいろんなことが制限されてしまう今となっては、たとえそれがほんの些細なことでも、希望を叶えてやれないのが申し訳なくなってしまうのだ。

最近は、直接頼まずに「察してほしい」空気を出してくる。
「あ、今日は〇〇が安売りしてるんだった」
「そらそろリビングの絨毯を外して夏仕様にしたいんだよね」

ああそうですか。

「私がやろうか?」という言葉を待っている。

今年から弟が職場の都合で数十年ぶりに実家に戻ってきている。
この家のことはこの家の人がやればいいじゃないかと思う。
あるいはちゃんと口に出して頼んでくれと思う。
絶対こちらから「察して」やらないと決めている。

というのも、母は弟や義妹にはそれなりに気を遣っているように見えるが、娘である私にはあまり気を遣わない。
なんなら自分の一部だと思っている。
この歳になっても学生の時と同じような調子で小言を言われるのはものすごく萎える。
いつまでもいつまでも子供扱いだ。
そして、そんな母にいまだに「いい娘」だと思われたい自分がいるのも確かで、そんな自分に絶望する。

今は少しずつ距離をとる練習中だ。
決して母が嫌いなわけではない。
遠く離れたいわけでもない。
いつまでも元気でいてほしい。
だから、サポートしつつも疎ましく思わないで済むような、うまいつきあい方を模索している。

母の名誉のために言っておくが、母は決して自分本位の空気の読めない人ではないと思う。
常に客観的にものごとを見ているし、人と話す時もとても言葉を選ぶ人だ。
母に相談ごとを持ちかける友人も少なくない。
ただ、娘の私にだけは言葉を選ばないというだけだ。
最近それが顕著に思えるのは母も私も年をとったからなんだろう。
反面教師で、自分も子供に対しての接し方を考えさせられる今日この頃なのだ。

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