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いつでもどこでもできる「ゆる禅」

2021年、あらゆるところで坐禅をしました。それは室内だけではなく、キャンプ場、農園、岬などの野外まで。この一年は、本当にたくさんの坐禅体験をしました。坐禅の場所に、決まりはありません。どこでもできます。それを体感した一年でした。


「坐禅」と「座禅」の違い

みなと坐禅の漢字表記を「座禅」ではなく「坐禅」としているのは、実は今更ながらとても大事にしているところ。「座」は、坐る場所を意味し、「坐」は、坐る動作を指す。そして、この場で行う坐禅は、坐る場所を自ら選ぶことも含む。

坐る「座」を選ぶということ

【こーさん(坐禅ナビゲーター)の言葉】

まず、どこに坐りたいか。今坐っているところで坐禅をしなきゃいけない理由はない。そのときどこがいいか。選んで坐る。そうすると、ひとつは、それって理屈じゃない。なんとなくの自分のアンテナでどっちに行きたいかで単純に決める。誰からもそっちはダメだとは言われていない。さらに、どっちを向いても大丈夫。それをして初めて、自分で決めるとは、こういうことなんだとなる。

振り返ってみると、もしかして人に言われてやっていることも多いかもしれないけど、多くの場合、実は何度も自分でちゃんと決めているんだなと気づく。それをあらためて顕在化しておかないと、どちらかと言えば失敗したときに自己責任にみたいになる。別のパターンだと、人から言われてやったということになると、そっちのせいにしてしまう。その結果、どっちに転んでも自分をいじめることになる。だから、ちょっとしたことでも決めるということを自覚的にやっておくと、(どんな結果になっても)これでいいと思える。坐禅は、そこに坐ったからまずかったですね、なんてない。

(2021/11/30@みなと坐禅)

もし「座席」を選ぶことに慣れていないと思うひとがいたら、それは環境によるものだと思う。

たいてい高校生までは「あいうえお順」や「くじ引き」などで「座席」が決まるし(わたしの場合)、職場だって、今ではフリーアドレスになってきた会社も増えてきたけど、いまだに決められた場所で仕事をするのが多いように思うから。

たとえ自分の「座席」が暑くても寒くても、移動することが許されないときは、衣類の調整をするなどして、自分なりの心地良さを作ってきた。もし近くに苦手な人がいたとしても、城壁を作るなどして折り合いをつけてきた。与えられた環境で、自分なりに居場所を作り、決めてきた。

他人の「座席」を決める側にもそれなりの理由や背景があることは想像できる。ただもし信頼関係が前提にあったとしたら....。決める側も決められる側もなく「あなたはあなたのお好きな場所に」「わたしはわたしの好きな場所に」が生まれ、最適な配置で調和が取れるんじゃないかと思う。

そのひとの坐禅は、そのひとの世界だから、そのひと以外の誰かが調整することはできない。それが成り立つのは「自分」も「相手」も「場」も信頼しているから。

自分で決めたことを肯定する

【こーさんの言葉】

自分で決めて肯定的に受け取ることを繰り返すことで、初めて自己肯定感が生まれてくるわけですよね。坐っている座布団も、こっちを上にしたほうがいい感じがするなとか。いつでもできるけど、そういう頭を持っていないと、決してやらない。決めてみると、その後、していることについても、いろいろ(肯定的に)作ることができる。

今日は足組めているわけですよね、なんとなくね。この体勢でそういうふう(背中が真っ直ぐ)な上半身でいられるのは、当たり前じゃないんですよ。あぐらをかくとこうなっちゃう(背中が曲がってしまう)人のほうが多い。慣れていないから。上半身を保っていられるというのはすごいことなんですよ。普通にやっているように見えることに対して、案外普通じゃなく、当たり前でもないから、それに価値を与えるのはいつでもやっていい。

(2021/11/30@みなと坐禅)

自分で決めたことを自分で肯定するのが難しいと感じるひとは、相手に合わせる柔軟性があるように思う。空気を読む力もある。生き抜く処世術もあるかもしれない。それは紛れもない長所と捉えていいし、大事にしてもいい。そして、それ自体「肯定」に値する。そして「自分で決めたことを肯定できないことを肯定する」としてみる。

語尾に「肯定する」を付ける遊び。
この遊びを身につければ、最強ではないですか?

決まりごとはいつでも変えられる

【こーさんの言葉】

坐禅はちょっとしかしなくても、いろいろかたまっているのをなんとなく、やわらかくする。こうでなければならないっていうのにすぐつかまる癖がついている。癖がついているのは、社会的に環境的になりやすくなっているから。なりやすい癖がついている。坐禅を日常にちょっとでももちこんでみると、実は相当変わる。坐禅をしなさいということじゃなくて、坐禅的な感じでいるということ。自分はいつでも自由なんだから。

2021/11/30@みなと坐禅)

世界にすでに存在しているだいたいの決まりごとは、これまで人類に都度書き換えられている。だから人類によって作られたものは、いつでも書き換えが可能。自分がしっくりこないなら、自分で書き換えてしまえばよい。自分は自分の宇宙を生きたらよい。なんたって宇宙は果てしなく自由で広いから。

坐禅は、いつでも、どこでもできる

【こーさんの言葉】

根はどこでも生える。降りたところが根になるだけで、どこに行っても根が生える。土が無ければ生えないわけじゃない。そのときは水耕栽培だね。土地が無ければ、ここからどういうところに行くのかで、必ずしも根づく必要はない。それをどう楽しめるか。

(2021/11/30@みなと坐禅)

みなと坐禅は、信頼と尊重の土台から始まる。

開催場所は、そのときどきで変わるし、参加者さんに坐る場所の誘導もしない。そして坐禅という動作の案内はしても、場所については問わない。

坐禅後のシェアも、誰が何を感じ、誰が何をシェアしてもよいことになっている。自分が受け取ることも(受け取らないことも)、自分が発言することも(発信しないことも)、全て自分で決めていく。決めていると自覚していく。

最後に...

もしかしたら坐禅はどこまでも自分は何なのか?自分はどうなのか?を問い続け、それに対し肯定し続ける旅でもあるのかもしれません。みなと坐禅は、あなたの旅の隣人として存在できるとよいなと思っています。

2022年もゆるっと坐禅しましょう。



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