見出し画像

連載小説『五月雨の彼女』(3)

 未知華は「また話すのか」という面倒な面持ちをこちらに向けたが、カップに残った冷めた紅茶を一口啜ると、素直に話し始めた。

 「私と倫史さんが付き合い始めたのは、半年前。私が倫史さんの部署に派遣社員として入ってすぐの頃よ。あの人、営業部では『鬼部長』なんて呼ばれてるけど、ある日、娘さんへのクリスマスプレゼントに悩んでたらしくて、『最近の若い女の子は、何が好きか知ってるかな』とか、困った顔してこっそり聞いてきた。『私、もうアラフォーですよ』って言ったのに、あの人、『娘と好みが似てるから、どうしても』って。一応、二十歳くらいの女子が好きそうなブランドを伝えたんだけど、ちんぷんかんぷんだったみたいで、結局、一緒にデパートの化粧品売り場まで行ってクリスマスコフレを選んだの。その日は、買い物が終わって別れただけよ。その後、お礼にと言われて、クリスマスイブにふたりで食事に行ったのが始まりなのかしら。別に、『付き合いましょう』と言って始まった関係でもないし、抱き合った日が始まりってことになるのかもね」

  未知華の口から洩れる甘ったるい声で、彼女と夫の物語が語られると、頭の中が激しく揺らぎ、目の前がぐわんぐわんと大きく歪んでいくような心地がした。弁護士の染谷氏から事前に報告は受けていたが、本人から直接話を聞く衝撃は想像を超えている。

 
 昨年のクリスマスイブ。あの日のことを、私ははっきりと憶えている。   
 毎年、クリスマスイブは、加賀原の実家に家族一堂が集まる大切な日だ。加賀原グループを取りまとめる父の辰興たつおきは、どんなに仕事や用事で多忙であろうと、母の命日であるこの日だけは、必ず加賀原家に帰るよう家族に厳しく申し付けている。

 この日も、父の跡を継ぐことが決まっている私の兄の一真、その妻の沙苗、息子のあきらとその妹の由梨、父の弟で私の叔父である伸興のぶおき、その妻の小枝子と娘の実乃里、父の末妹まつまいで私の叔母にあたる加寿子とその息子の達哉、そして、私の十名が父の元に集まった。

 夫の倫史は、この日も仕事で多忙にしているようであったが、食事会の始まる午後五時までには加賀原家を訪れると、出勤前に私と約束をしていた。  
 しかし、午後五時を過ぎても倫史は姿を現さず、そのことにすぐに気が付いた父は、ワイングラスで献杯を行う前に、私に鋭い視線を向けた。

「瑠璃加、まだ倫史くんが来ていないが、どういうことだ。ちゃんと今日のことを伝えたのか。彼は多忙なのだから、こういう家族の大切な時間を作れるようサポートするのが妻であるお前の仕事だろう。お前がきちんとしていないから、彼が来られないんじゃないのか」

  父は、決して声を張り上げて怒りをぶちまけたりはしないが、静かな口調で紡ぐ言葉の中に冷罵れいばと威圧を織り込んで、決して相手に反論を許さない。
 私は心の中で「この前は、女は男の仕事に口を出すなと言っていたのに」と文句をこぼしたが、決して口には出さず、「お父様、申し訳ありません。倫史さんは、きっと年末の仕事が立て込んでいるんです。どうか、お母様のためにも食事会を始めてください」と大人しく頭を下げた。

 「瑠璃加の言う通りですよ、お父さん。早く会を始めないと、お母さんもどうしたらいいか迷ってしまいますよ」

 明朗な声で父をなだめるのは、兄の一真だ。三つ年上の兄は、父が私のことで機嫌を損ねると、いつも場の空気を変え、私をかばってくれていた。
 父は、亡き母によく似た面立ちの兄をとても可愛がっており、幼い頃から勉強も運動も優秀な成績を収めてきた兄を自慢の息子として育ててきた。兄は、父にとって加賀原グループを継がせるべき唯一無二の存在で、現在は親会社である「加賀原商事」の常務執行役といくつかの子会社の取締役を兼務させている。他者の助言など嫌う父が、経営について兄の言葉に耳を傾けるのも、その愛ゆえだと私は思っている。

 「……そうだな。一真の言う通りだ。今日は、鞠子まりこにも楽しんでもらえるよう、食事をしよう」
 父はそう言うと、隣の誰も座っていない席に並べられた赤ワインソースのかかったミディアムレアのステーキや、ワイングラスに入った炭酸水、平たく盛られた柔らかめのライス等を寂し気な目で眺めてから、自身のワイングラスを静かに掲げた。

  父は、母を心底愛していた。私が高校を卒業する年に母が亡くなってから、側に世話をしてくれる女性を置くこともせず、何度かあった再婚の話も全て断り、ずっと独り身を貫いている。

  父に限らず、きっと誰もが優しく穏やかな母が大好きだった。兄が優しい性格に育ったのも、全て母のおかげだと思っている。母は花が好きで、加賀原の広い庭には母が手を掛けた分だけ四季折々の花が美しく咲き誇った。料理も上手で、鰹と昆布のだしを丁寧にとったおすましは、一口サイズの玉子豆腐や三つ葉が透き通った濁りのない汁の中でゆったりと上品に漂い、それは美しかった。

 けれど、時々、ほんの一瞬だけ、まるで障子の隙間から洩れる僅かな光の如く、母をさげすむ心が私の中で生まれているのを感じることがあった。
 いつも微笑みを忘れず、愛情にあふれた母。その顔は私にとって安心できるものだったけれど、母の微笑みを加賀原の家以外で見たことがなかった。仕事に各地を駆け回る父がいつ電話しても出られるよう、母は必ず家にいた。どこかに出掛けることもせず、兄と私を遊びに連れて外へ行くこともせず、毎日毎日、加賀谷の家の敷地のどこかで夫の電話と帰りを待っていた。

 私は、そんな母を時々、窮屈に感じていたのかもしれない。そして、私立のエスカレーター式の女子校に通ってはいたものの、成績も普通で特に目立つような特技もない私を生んだ母を、父の憎む祖父の独特な形の鼻そっくり映したように私を生んだ母を、私はどこかで憎んでいた。

 父にとって汚辱おじょくでしかない私が、倫史と結婚せねばならなかったことも、私は今もどこかで母のせいだと思っている。

 (つづく)

つづきは、こちらから↓

第一話は、こちらから↓


いつも応援ありがとうございます🌸 いただいたサポートは、今後の活動に役立てていきます。 現在の目標は、「小説を冊子にしてネット上で小説を読む機会の少ない方々に知ってもらう機会を作る!」ということです。 ☆アイコンイラストは、秋月林檎さんの作品です。