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【舞台鳩】テンダーシング ─ロミオとジュリエットより─

テンダーシング ─ロミオとジュリエットより─
原作:W・シェイクスピア 作:ベン・パワー 翻訳監修:松岡和子 演出:荒井遼

リーディングドラマ ロミオとジュリエット
作:W・シェイクスピア 翻訳:松岡和子 構成:木村美月 構成・演出:荒井遼

2023年 8月10日(木)- 13日(日)
あうるすぽっと




あらすじ

もうひとつの『ロミオとジュリエット』再演!
『テンダーシング-ロミオとジュリエットより-』はシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の台詞を縦横無尽に再構成し、ソネット詩や歌なども加えて生み出された、ロミオとジュリエットという名前の老夫婦の愛と別離を描いた画期的な作品です。
日替わりキャストによる『リーディングドラマロミオとジュリエット』も上演!

舞台 テンダーシング / リーディングドラマ ロミオとジュリエット


キャスト

ロミオ:大森博史
ジュリエット:土居裕子
 
(リーディングドラマ)
ロミオ:梅津瑞樹
ジュリエット:木村美月


感想

劇場に一日おり、本公演の「テンダーシング」と、朗読劇の「ロミオとジュリエット」どちらも見てきました。
鳩が観劇した日は「テンダーシング」→「ロミオとジュリエット」の順番。
あうるすぽっと、名前は知っていたけど初めて行った。エレベーターが激混みするので、行かれる方は早めに劇場に着くのがよろしいかと思いました。


「テンダーシング」
ロミオとジュリエット自体をほぼ筋しか知らず見ていたので、正直初めはあまり入り込めなかった。台詞回しがかなり不可解で繋がっているんだかいないんだか……? という違和感がかなりある。その中で抽象的な物語ではなく、かなり現実的な要素(老夫婦の病や死について)が入ってくるので、あまり個人的にはヒットしませんでした。まあちょろいので、そのラストにしっかり感動はするのですが……。

舞台装置が面白かった(ヘッダーの画像参照)。吊ってあるカーテンがたまに揺れるのに気がついて、どうなっているんだろうと思っていたら、その少し外側に大胆にも扇風機が置いてあるんですよね。扇風機が何事もなく首を振って風を送っている。あの扇風機、初めは視界に入っていなかった。気にしない限り"見えない"んですよね。面白い。


「ロミオとジュリエット」
初めてまともに聞いていたのだけれども、ジュリエット14歳があまりに予想外でビビってしまって、時代感チューニングに失敗しました。古い話を読む時は、その時代の感覚に合わせるので特に何も気にしないのですが、ジュリエット14歳であの展開は衝撃的で戻ってこれなかった……。これロミオはいくつなの……?

全てを台詞で表現するため、語られる言葉があまりにロマンチック。あなたのことがどうして好きなのか、どこが好ましくて、どうしてもあなたが欲しい、ようなことを全て台詞にしてしまうので、結果的にものすごく甘い口説き文句を囁いており、聞いていてだんだんこっちが恥ずかしくなってくる。確かに演劇は小説でないので、登場人物が心情を語ることになりますよね……。ロミオもジュリエットも大変良いお声と話し方で、甘く可憐にお互い囁いていますから、観客の鳩が流れ弾を喰らいました。まあロミオがたまに本の外で剽軽なことをするのでこちらの照れが緩和されてよかったですが、まさかあの台詞たちの中でそういうことをやってくるとは、思っていませんでした。

これは古い物語は大半そうですが、みんな顔で惚れるよな〜〜〜。でもそれでしか惚れる術のない時代だったのだろうとも思う。容姿以外で他者に恋することができる、ということは自由の産物なのかもしれないと、ふと思いました。

朗読劇まで見て「テンダーシング」を思い返すと、納得できる部分も多く、これは見る順番が結構印象を左右するのかもしれない。「テンダーシング」の方の不可解な台詞回し、「ロミオとジュリエット」の台詞を組み替えているためということが、一日見終わって理解されたのですよね。一応そうなっていることは、チケットを取る時に知ってはいたのですが、やっぱり実感を伴うのと伴わないのとでは雲泥の差。その試み自体はとても面白かったのに、よく分かっていなかったためにのめり込めなかった。
鳩みたいなタイプはもしかしたら「ロミオとジュリエット」→「テンダーシング」の順で見た方が、より面白く見られたのかもしれないと思いました。さすがにチケットを取る時はそこまで読みきれなかったな、ちょっと勿体無いことをした。

恋についてのなにか台詞があったときに、閃いたのは「恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」(こころ / 夏目漱石)なわけですが、シェイクスピアから夏目漱石にいたるまでの云百年、夏目漱石から現代の私たちにいたるまでのおよそ百年、この恋のもたらす感情と、恋情が引き起こす一種の狂いのようなものへの共感はまったく変わらないものなのだなと思いました。あらゆる法を無視しかねない、恋情が引き起こす激情は、やっぱり狂いでしかなく、それは時代がいくら変化しても変わらない。


最後にちょっと違う話。
「ウエストサイドストーリー」は、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」に着想を得て作られていますが、マリア(ジュリエットに相当する)は死なない。ジュリエットは死して添い遂げ悲劇として結末を迎えるけれども、マリアはトニー(ロミオに相当する)が死んでも、悲劇のその先を生きるべくとして造形されている。
現代に生きるマリアが死を選ばないのは、その違和感に疑問を投げかけること、投げかけられる立場の人間が必ず生きていて主張できることこそが、(その当時の)現代としては必要だったのだろうなと、思いました。

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