最近の悩みあれこれ
最近、吹奏楽界隈の音楽の方向性と自分の音楽の方向性が乖離して悩みがちなので、ここに書き留めておきたい。
吹奏楽部の捉え方
私は、吹奏楽部も含めた一般の吹奏楽団は、演奏を通して音楽に親しみ、演奏者個々人の音楽性を豊かにする場だと考えていた。したがって、演奏技術の向上だけが目的ではないし、それは、生涯にわたって音楽に親しむという大きな目標を達成するための、一つの手段に過ぎないと思っている。
過度な"綺麗さ"の要求
いつから演奏会全体の完成度が技術的な尺度だけで評価されるようになったのだろうか?もともとこの程度だろうか?音程が綺麗にハマっているか、タテが綺麗に揃っているか、それも重要だが、それが達成されていても「つまらない」演奏は山ほどある。選曲、技術、表現、すべて含めてそのバンドの実力ではないかと思う。
アマチュアのバンドに技術をどの程度要求するかは、非常に難しい。プロに比べて技術的に劣るのはしょうがないものの、かといってプロの真似をしようとして技術一辺倒になると、音楽を小奇麗に仕上げることしにしか思考が向かなくなってしまい、音楽に十分に親しめないまま本番を迎えてしまう。それは不本意である。「タテを合わせて!」「音程を合わせて!」ばかりの合奏ほどつまらないものはない。
それでも、合奏が“綺麗さ”偏重になるのはまだ許容できた。合奏で他のパートを聴く、自分でスコアを開いてみるなど、自分の裁量次第で楽曲への知見を深める余地は十分にあると思う。
私が本当に問題だと思ってるのは、その発想が選曲にまで及んでしまうことである。
少なくとも吹奏楽曲においては、よくできている面白い曲と、あまり考え抜かれている様子が伝わってこない曲(多くの場合近年のコンクールでよく演奏される…)と、差が顕著であると感じる。
しかし面白い曲は、バンドの実力がモロに出る、誤魔化しがきかない曲でもある。個人個人が最低限の演奏技術を有していることに加え、楽曲の解釈も一筋縄ではいかない。最終的な演奏のクオリティを上げたいがために、そのような曲を避けがちな傾向があると個人的には感じている。
当然、演奏会をやるからには、お客様にご満足いただけるクオリティに仕上げなければいけない。しかし、演奏の綺麗さばかりを求めて過度に保守的な判断に走ってしまうのは正直納得がいかない。表現や選曲も含めて演奏会のクオリティが決まるのだから、コンテンツの内容にもこだわるべきであるはずである。
いわゆる「一組」は端的な例の一つである。吹奏楽史で最も重要な曲の一つだが、上手く鳴らすのは本当に難しい。それ故だろうか、なかなか聴く機会はないし、今の中高生はホルストを知っているかどうかすら怪しいと思う。
一般に、成長には負荷が必要である。自分のコンフォートゾーンから出て、できないことに挑戦しなければならない。そこで「自分たちにはできないから辞めよう」と引き下がるのは、成長のチャンスを失っているようにしか思えない。
それで練習も演奏も「それなり」ならまだわからなくはないが、それでいて演奏には手を抜かず、技術向上に貪欲なので、本当に謎でしかない。上手くなりたいと思うなら、それに見合った曲をやるのが自然だと思うのだが…私が今まで出会った吹奏楽関係者はそういう人が多かったと思う。
”綺麗さ”の限界
ちなみに、音程やタテが合ってる”綺麗な”演奏の完成度が高いかというと、私はそうはそうは思わない。
以前演奏会でswingの曲をやったことがあり、その時にアンケートに「swingがswingになっていない」と書かれたことがあった。アマチュア団体の演奏に随分辛辣なことを言うなと思ったものの、実際その通りだった。
タテも音程も大きくずれることはなかったし、よく整った演奏だったと思う。しかし、どうしてもジャズ特有の「ノリ」がなく、演奏している側としてもあまりswingしている気がしなかった。
タテや音程ばかり気にする演奏の限界はこういうところに現れると思う。確か、整った”綺麗な”演奏はできるかもしれないが、一方でそれは”つまらない”演奏になりかねない。その曲のノリやテンポ感、雰囲気やキャラクター、などを味わい、多少なりともその楽曲に親しむ努力をしなければ、本当の意味での「完成」はあり得ない。
指揮者による独裁体制の限界
私が見てきた多くの団体が、指揮者の指示を合奏で聞き、その通りに演奏することに精を出していた。しかし、最近はそういうやり方に限界を感じてきた。
そのような、いわゆる「指揮者の独裁体制」のもとで作られた音楽を聴くと、多くの場合、”綺麗な”音楽になっている。演奏者一人一人が音楽を味わっていないからだろうか?どうしてもどこかつまらない演奏だと感じることが多い。
また、大学生や社会人のバンドになると、そもそも指揮者が表現を逐一指定して統一感を出す、というやり方がそもそも無理だと思う。私の所属団体では、みんなそれぞれ自分の事情を抱えており、毎回の練習に全員が来るのは不可能で、全員揃うのは本番当日のみである。そのような中で、合奏を「指揮者の言われたとおりに演奏するゲーム」として位置付けることは実質不可能ではないか。一部のメンバーが指揮者の指摘に必死に食いつき、メンバーが一部入れ替わって、次回もまた同じことを言われ、の繰り返しである。
ではどうすればよいか?
演奏者の側からもう少し発信を行う必要があるのではないかと思う。演奏者一人一人がどういう音楽をしたいのか合奏中に発信し、合奏中にそれらがぶつかり合う、必要な部分は整理する。そうしないと、結局何が言いたいのか、何がしたいのかが伝わらないと思う。
ただ、何もないところから何かが湧いて出るわけではない。何かを発信するためには、それなりのストックが必要である。音楽においては、楽器を演奏するだけではなく、いろいろな演奏に触れることによって、音楽性は鍛えられ、蓄積されるものであると思う。その意味で、演奏一辺倒の音楽は限界があると思う。
これは、もっと発信を行わなければいけないという演奏者としての私自身の反省でもあり、演奏者が積極的に音楽を発信できる環境づくりに努めなければいけない、という指揮者としての私自身の反省でもある。
最後に
趣味で音楽に取り組むアマチュアの音楽は、まず第一に、面白くなければならないと思う。タテや音程を綺麗に合わせる”だけ”では、やってる側も聴いてる側も面白くない。指揮者の指示通りに表現をつけても、やっぱり、どこかつまらない。
過度な綺麗さを求めて無難な選曲をしないこと、”綺麗な”音の羅列で終わらないこと、それが今、アマチュア吹奏楽に最も必要なことではないかと思う。
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