見出し画像

【パスティーシュ】坂の上の馬鹿(『怪道をゆく』シリーズ)

紅葉鳥もみじどり
羽なき鳥の
谷渡り

その日、源義経という、世界にも類を見ない天才軍略家が、このまことに小さな国の戦を変えた。その独創性において、これは義経という作家が書いた一篇の物語——作品と言っていい。

時は寿永三年二月七日、所は一ノ谷。

俗に云う、「鵯越の逆落し」である。

武蔵坊弁慶が、一人の年老いた猟師を義経の前に連れてきたところから、この物語は始まる。

義経は優れた軍略家がしばしばそうであるように、回りくどい言葉を好まなかった。
いきなり、「一ノ谷へ下りることはできるか」と訊ねた。
すると猟師は老人らしい頑迷さで首を激しく横に振った。
「めっそうもございません。三十丈の谷があり、十五丈の岩のそそり立つ場所です。人も通れない場所を、どうやって馬で下りることができましょう」

義経は重ねて問うた。「では、鹿は通えるか」
思いがけない質問に、老猟師は一瞬虚を突かれたような顔をした。ややあって答えた。「鹿は通えます」

すると、義経は笑った。この天才軍略家は、笑うとひどくあどけない顔になる。こう言い放った。

「鹿の通はん所を馬の通はぬやうやある」

――鹿の通う所なら、馬が通えぬはずはあるまい。

この一言が、日本史を変えたと言っていい。

義経主従僅か七十騎は、山中の難路を進み、一ノ谷の後方の山上に出た。一ノ谷の平家の陣営を見下ろす位置である。この場所が「鵯越」であるか「鉄拐山」であるかについては論争がある。筆者はもちろんその間の事情を知悉ちしつしている。担当編集者に教えてもらったわけではない。

この時の義経は日本史上の分岐点に浮かんだ坂の上の雲から、唐土の孫悟空の如く地上を俯瞰していたというのが筆者の史観である。「鵯越」であろうが「鉄拐山」であろうが、そんなことは些末な問題に過ぎないのである。

筆者は同業者の一人として『平家物語』の作者に敬意を表し、「鵯越」説を採って、この物語を先に進めることにしたい。

義経主従は、「鵯越」から崖下の平家の陣を見下ろした。

もっとも、義経はいきなり馬で崖を駆け下りたわけではない。
先ず、人の乗っていない馬を駆け下りさせて様子を見ている。

結果は、足を折ってしまった馬と、無事に駆け下りた馬がいた。そういう状況を冷静に分析してから、「義経を手本にせよ」と行って、自分が真っ先に駆け下りているのである。

筆者もまた、日曜の夜八時から放送されているNHKのドラマを観ることがある。それは執筆にんだ時の気分転換であって、参考にしているわけではもちろんない。ただ、現在はSNSなどというものがあり、御所の女房たちの如き口さがない書き込みが散見されるので、念のために記しておく。

偶々たまたま観たドラマの中の義経はADHD的性格と言おうか、周りなど一切気にせず翔ぶが如く突っ走る人物として描かれていた。しかし、『平家物語』の作者の記述を信じるなら、彼は意外にも冷静な一面を持っていたのである。あまつさえ、危険な状況の中で自分が最初に「手本」を見せるというのは、リーダーとして見事である。少なくとも、あの無謀な太平洋戦争を引き起こし、日本を滅亡に導いた昭和の軍人たちとは異なっていた。その点が、平家側にしてみれば大きな不運であったと言う他はない。

一方の平家軍も、ただぼんやりと口を開けて、義経たちが崖の上から攻め寄せてくるのを眺めていたわけではない。

義経主従が奇襲をかける時機を窺っている時、彼らの気配に驚いた鹿が、一ノ谷の平家の陣の方へ向かって崖を駆け下りて行った。

平家の兵たちはざわめいた、と『平家物語』の作者は記している。

「里近くにいる鹿でさえ、我らを恐れ、山深くへ隠れるもの。なぜ逆に我らの方へ鹿が下りてくるのか。もしや、山の上に源氏の兵が隠れているのではないか」

というのである。

唐突だが、広辞苑によれば、鹿の別名を「紅葉鳥」というらしい。

今回の随筆を書くために、筆者は実際に一ノ谷をこの足で歩いてみた。別に本連載の担当編集者に「取材もせずに勝手なことを書かないで下さい」と言われ、無理やり連れてこられたわけではない。

筆者は自分が平家側の兵の一人になったつもりで、谷の底から崖の上を仰ぎ見た。

義経主従に驚いた鹿が坂の上から駆け下りてきた時、平家の兵たちは、鶯ならぬ「紅葉鳥」の、その谷渡りを聞いた気がしたのではないか。

その時、筆者の中に詩興が湧いた。

冒頭に掲げた下手な一句がそれである。読者諸賢の批正を賜れば幸いであるが、SNSに筆者の悪口を書き込むのは心が折れるのでやめていただきたい。

                               (了)

(『怪道をゆく』USO篇・連載第八百回)

※※※※※

※今回は、昭和の歴史小説の巨匠っぽい文体のパスティーシュに挑戦してみました。まあ、あんまり似てないですね💦💦


※「シロクマ文芸部」に参加いたします。

前話:指を食う話 / 次話:

#シロクマ文芸部 #パスティーシュ #歴史エッセイ #俳句 #紅葉鳥