見出し画像

「水の少女」の話——みなの古代史ミステリー

前話:夢に龍を斬る――わたしの『西遊記』 / 次話:

いきなりですが、羽衣伝説はごろもでんせつって、変な話ですよね?

小さい頃、昔話として読んで以来、ずっと変なお話だと思っていました。

天女が地上に降り、羽衣を脱いで水浴していると、人間の男がその羽衣を隠してしまう。羽衣がないと天に帰れない天女は、仕方なく男と結婚する。その後、天女は男の留守に羽衣を探し出し、それを着て天に帰る――

覗き、拉致監禁、恐喝、強要……

はっきり言って、変態犯罪者の話じゃないですか。

楠山くすやま正雄まさお『白い鳥』など、子供向けに書かれた再話があるのですが、内容的に見て、どう考えても子供向きのお話ではありません。

このお話は、桃太郎とか、瓜子姫とか、一寸法師とか、かちかち山とか、花咲じじいとか、ああいった昔話とは明らかに異質です。

異質さの原因は、この話の核に、明らかに「性」を感じさせるものがあるという点にあります。

1)天女はなぜ地上に降りてきて、「水浴・・」をするのか?

2)「水浴」をする時に、なぜ「羽衣」を脱ぐ・・のか?

考えれば考えるほど、不思議な話に思えてきます。天女なら、ずっと天にいればよさそうなものです。天上界には地上よりもっと美しい沐浴の場がありそうなのに、なぜわざわざ地上に降りてきて、「水浴」などをしなければならないのでしょうか。

しかも、大事な羽衣を脱いで

あまりに無防備です。これではまるで、最初から人間の男に襲われるのを待っているようではありませんか。(実際襲われてしまうわけですが…)

日本民俗学の泰斗・折口おりくち信夫しのぶ『水の女』は、この「羽衣伝説」について、非常に面白い見方を提出する論考です。

折口信夫は、古代には天皇のみそぎを助ける神女」がいたとし、それが「羽衣伝説」における「天女」の原型だと考えています。

七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊天人も、飛行の力は、天の羽衣 に繋っていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う

折口信夫『水の女』

「神女の身に、羽衣を被る」のが後の世における「伝承の推移」だとするなら、元の「神女」はいったいどのような役割を果たす女性だったのでしょうか。

神女の手で、天の羽衣を着せ、脱がせられる神があった。(中略)天の羽衣のごときは、神の身についたものである。

折口信夫『水の女』

「神女の手で、天の羽衣を着せ、脱がせられる神」とは、天皇を指します。

折口信夫によれば、「天の羽衣」とは本来、「禊ぎや湯沐みの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布」でした。しかも――

誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、その布を結び固め、神となる御躬の霊 結びを奉仕する巫女があった。

折口信夫『水の女』

この「巫女」こそ、折口信夫の謂うところの「水の女」なのです。

このような「神秘の結び方」というのは、一体何のために必要だったのでしょうか。

神の資格を得るための禁欲生活の間に、外からも侵されぬよう、自らも犯さ ぬために生命の元と考えた部分を結んでおいたのである。

折口信夫『水の女』

ようやく禊ぎを終えた天皇は、湯に入ります

天の羽衣や、みづのをひもは(中略)湯に入る時につけ易えることになっ た。(中略)そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、 長い物忌みから解放するのである。

折口信夫『水の女』

禊ぎを成し遂げたという満足感と温かい湯に浸かる快感。そこに現れる「水の女」。彼女は天皇本人すら知らぬ「神秘の結び目」を解き、真の意味で天皇を「物忌みから解放する」のです。

自分を「解放」してくれる、若く美しい女。その後、彼女が「寵愛を受ける」ことになるのは、自然のなりゆきというものでしょう。

さて、皆さん。ここからお話は、だんだん古代史ミステリー風になっていきます。

この沐浴の聖職に与るのは、平安前には「中臣女」の為事となった期間があったらしい。宮廷に占め得た藤原氏の権勢も、その氏女なる藤原女の天の羽衣に触れる機会が多くなったからである。

折口信夫『水の女』

折口信夫によれば、「藤原」という姓は、元々は地名の「藤が原」が変化したものなのだそうです。

藤井が原を改めて藤原としたのも、井の水を中心としたからである。

折口信夫『水の女』

藤原氏というのは、水を専門とする家だったのです。そして「藤原女」は、「天の羽衣」「神秘の結び方」を知る「水の女」だったのです。

平安時代と言えば、藤原氏藤原氏と言えば、摂関政治

娘を宮廷に入れ、天皇の后にし、その子を次の天皇とする。自らは、天皇が幼い時には「摂政」として、成人してのち「関白」として、天皇に代わって政治を行う――これが藤原氏が政治の実権を握るために採用した戦略であったことは周知の事実であり、日本史の常識です。

つまり、藤原氏隆盛のために、一族の娘はなくてはならない存在でした。言い換えれば、彼女たちは一族の繁栄という重い使命を、その細い肩に背負わされていたのです。

折口信夫の『水の女』を読んだ時、わたしは思わず、あっと叫びたいような気持ちになりました。

高校生の時に『大鏡』を読んで以来、ずっと気になっていた、一人の女性の謎が、ようやく解けた気がしたからです。

その女性とは――

藤原ふじわらの綏子すいしです。

父親は、藤原兼家。「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」と詠んだ、あの藤原道長異母妹に当たります。

綏子は、藤原一族の娘の中でも、特に美貌で知られた女性でした。『大鏡』には、僅か「十一」尚侍ないしのかみとなり、三条天皇がまだ東宮であった時、その元服の夜の「そひぶし」(添臥)に選ばれたと書かれています。

……対の御方と聞えし御腹の御娘(綏子)、大臣(兼家)いみじくかなしくしきこえさせたまひて、十一におはせしをり尚侍になし奉らせたまひて、内裏ずみせさせ奉らせたまひし。御かたちいとうつくしうて御ぐしも十一二のほどに、糸をよりかけたるやうにて、いとめでたくおはしませば、ことわりとて、三条院の東宮にて御元服せさせたまふ夜の御そひぶしに参らせたまひて、三条院もにくからぬものに思し召したりき

『大鏡』

『大鏡』では綏子の当時の年齢は「十一」、または「十一二」となっていますが、現代の歴史書では14歳になっています。

ただ、どちらにしても彼女がローティーンの少女であったことは間違いありません。

「糸をよりかけたるやう」――細い、さらさらした髪が額にかかるような美少女だったのでしょう。

当初は「にくからぬもの」と思われ、寵愛を受けた綏子でしたが、間もなく三条天皇からうとまれるようになったと言われています。

その疎まれるきっかけとなった事件が、『大鏡』の中に記述されており、それがわたしの中でずっとになっていたのです。

それは、こんなエピソードです。

夏いと暑き日渡らせたまへるに、御前なるをとらせたまひて、「これしばし持ちたまひたれまろを思ひたまはば、今はと言はざらむ限りは、置きたまふな」とて、持たせきこえさせたまひて、御覧じければ、まことにかたの黒むまでこそ持ちたまひたりけれ。

『大鏡』

夏の暑い日、三条天皇は、ある悪戯を思いつきます。

綏子の手に「氷」を握らせ、「私がいいと言うまで放してはならぬ」と命じたのです。「まろを思ひたまはば(お前が私のことを本当に想っているなら)」できるはずだ、と。

この時、綏子は手が黒く変色するまで、ずっと氷を握っていました。

そんな綏子の様子を見て三条天皇はかえって興ざめし、「あはれさ過ぎて、うとましくぞおぼえしか(いじらしすぎて、逆にうとましく思った)」と言ったと、『大鏡』には記されています。

現代の歴史書でも、綏子は美しかったが、「あまりに従順すぎる性格のため」に三条天皇に疎まれた、というのが定説になっているようです。

ただ、わたしは初めて『大鏡』を読んだ時から、その解釈に違和感がありました。

ローティーンの少女が冷たい氷を握り続けていたのは、本当に彼女の性格のせいだったのかという疑問です。

それが折口信夫の『水の女』を読んだ時、ずっと目の前にかかっていた霧が晴れていくような気分になりました。

綏子もまた、「水の女」の一人だったのではないでしょうか。

彼女は巫女ではありませんでしたが、一族の繁栄という、あまりに重い荷を担わされた存在であることに変わりはなかったのです。

「尚侍」というのは、後宮の内侍司ないしのつかさの長官です。まだあどけなさの残る少女を尚侍にする。これは異例中の異例に属することで、綏子の父・兼家の強引な政治手腕によるものでした。

三条天皇は、そうした兼家の専横ぶりを、内心苦々しく思っていたと言われています。しかし、表立って兼家を批判することはできません。そこで三条天皇は、綏子を陰湿な方法でいじめることによって、心中の鬱憤を晴らそうとしたのではないでしょうか。

表面的には三条天皇の若き日の、ちょっとした悪戯のようなエピソードが、なぜ『大鏡』の中に記されているのか――

それは、このエピソードの裏に、藤原氏と天皇家との間の、凄絶な確執の闇がわだかまっていたからに違いありません。

綏子は、自分の肩に藤原一族の期待が載っていることを、自分に課せられた使命が何たるかを、よく理解していました。

帝の寵愛を受けること――それが彼女に課せられた絶対使命でした。

三条天皇も、綏子の自分に対する従順さが藤原一族の意志を体現したものであることを知っている。だからこそ、「まろを思ひたまはば」という辛辣な皮肉の言葉を浴びせ、その小さな手に無理やり氷を握らせたのです。

三条天皇が意地の悪い目で見つめる中で、少女は氷の冷たさに必死で耐えながら、手が痺れて感覚がなくなるまで、皮膚が黒ずむまで、しっかりと氷を握って放さなかったのです。いや、彼女には他に選択肢がなかったのです。

前述したように、「あはれさ過ぎて、うとましくぞおぼえしか」と三条天皇は言ったと『大鏡』に記されています。

わたしが高校の時読んだ古典文学叢書の解説には、「人間心理をつくエピソード」という意味のことが書かれていました。でも、今のわたしには、この言葉はまったく違った意味として理解されます。

――こんな少女が氷の冷たさに耐え続けられるわけがない。

綏子がついに耐えられなくなって氷を放した、その時は……

「藤原の女の覚悟など、この程度のものか!」

そう言って、三条天皇は綏子を嘲笑あざわらうつもりだったのではないでしょうか。

でも、綏子は最後まで氷を放しませんでした。三条天皇は、この少女の中の「藤原の意志」に、それを遂行しようとする少女の「強さ」に、戦慄したのだとわたしは考えています。

前述の通り、この事件がきっかけで、三条天皇は綏子を疎むようになりました。

その後、綏子は源頼定と密通の末、懐妊したという噂が立ち、異母兄の道長がそれをすごい方法で確かめるという、仰天のエピソードが『大鏡』には記されているのですが、その話はここでは割愛したいと思います。

とにかく源頼定とのスキャンダルによって、綏子は宮中から下がることになりました。そして寛弘元年(1004年)、逝去。現在の満年齢で数えて、三十歳の若さでした。

綏子が尚侍として後宮に入ったのは、永延元年(987年)のことです。

今から千年以上も前の「水の少女」——

「糸をよりかけたるやう」な髪をしていたという、一人の美しい少女のことを思うと、わたしはなんだか胸がしめつけられるような気持ちになります。


前話:夢に龍を斬る――わたしの『西遊記』 / 次話: