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『太宰治は、二度死んだ』終章・鎌倉篇(第30話)
「あっちゃん、ごめんよ」
岩に寝転んだまま、修治さんが言いました。
「なぜ修治さんがあやまるの」
わたしも同じように寝転んで、波の音を聞きながら青く澄んだ空を眺めていました。
「僕は、君を地獄へ誘うメフィストフェレスになっちまった」
「修治さんがメフィストフェレスなら、わたしは何かしら?」
「君はもちろん、マルガレーテさ」
わたしは修治さんの首に両手を回して言いました。
「わたしの可愛いメフィストフェレス様。あなたのお顔、ちょっと間が抜けていて素敵よ」
わたしは自分から修治さんの唇を求めました。一度だけのつもりが、なんだか物足りなくて、また貪るように唇を求めました。
そして、もう一度。
修治さんは何も言わずに、わたしの接吻を受け止めてくれました。
わたしは狂ったように修治さんに口づけし、「もう一度」と熱に浮かされたように繰り返したのです。
もう一度。お願い、もう一度……。
嵐のような一刻が過ぎて、わたしと修治さんは畳岩の上で抱き合い、頬と頬を擦り合わせるようにして、ぐったりと横たわっていました。
修治さんが外套をすっぽりわたしにかけてくれていましたし、修治さんと身体を密着させているので、寒さは全く感じませんでした。
この畳岩から海を眺めていると、人界から完全に遮断された無人島にでもいるみたいな気持ちになりました。
海の向こうに、ゆっくりと夕日が沈んでいきます。
燃える夕日を孕んだ海は束の間、黄金色に縁どられた紅の色を透かしていましたが、やがてそれも薄らぎ、ひたひたと足元に寄せる波から、しめやかに夜が這い上ってくるのでした。
「すっかり暗くなる前に分けておこう」
修治さんはむくりと起き上がり、途中で買ってきたカルモチンの瓶を取り出しました。
そして広げた紙の上に中身を空けると、慎重な手つきで二つに分けました。
「量が違うのね」
わたしは、じっと錠剤の二つの山を見つめながら訊きました。
「あっちゃんのは、こっち」
修治さんは小さい方の山を指差しました。「あっちゃんは僕と違って、これまでカルモチンなんか飲んだことがないだろう? だからこのくらいで十分なのさ。僕は不眠症でこの薬を常用しているから、多めに飲まないと効かない恐れがあるんだ」
薬を分け終えて安心したのか、修治さんはわたしに背を向けて、ぼんやりと海を眺めました。今だ、とわたしは思いました。
「莫迦。やめろ!」
修治さんはぎょっとしたように振り返ると、わたしに飛びかかりました。
でも一瞬はやく、わたしは飲み下していました。
大きい方の山全ての錠剤を。
「なんてことするんだ! それじゃあ僕が死ねな――」修治さんは、はっとしたように口を噤みました。
「いいのよ、修治さん。ほんとうに、これでいいの。死にたいのは、わたし。修治さんはやさしい剣豪だから、義のためにわたしに付き合ってくれたの。そうでしょう?」
「あっちゃんの莫迦!」
修治さんはわたしが初めて聞く大声で怒鳴りました。「僕は、君の方の薬は致死量に達しないようにちゃんと計算しておいたんだ。それを、それを、入れ替えて飲んじまうなんて……莫迦だ、あっちゃんは大莫迦だ!」
修治さんの目から、涙がぼろぼろと零れました。
「鎌倉行きの電車に乗った時から、僕はずっと自問していたんだ。あっちゃんを僕の道連れにしていいのかって。君と初めてひとつになった時、僕は思ったんだ。こんなきれいな人を死なせてはいけない。この人は僕なんかの何倍も、何十倍も神に愛される資格のある人間なんだって。それを、それを……」
「ありがとう、修治さん」
わたしは微笑みました。「最後にその言葉を聞けて、嬉しいわ。でも、もういいの。わたしは楽になりたいの。このまま眠らせて、お願い」
修治さんは泣きながら残ったカルモチンを全て飲み、わたしの隣に身を横たえました。
それから、わたしの身体をしっかり抱きしめてくれました。
「修治さん、偉い文士様になってね。約束よ」
「あっちゃん、僕はね、子供の時からずっと文士になりたいと思ってきた。他の何者にもなりたくなかった。でも、今は違う。もしまた目覚めたら、一作だけでいい、僕は僕にしか書けない小説を書く。その一作を書くために、僕は一度死ぬんだ」
「修治さん、あなたは一度死んで生き返るのよ」
「もう一度死ぬためにね。その一作が書けたら、もうこの世に未練はない」
「そんなこと言っちゃだめ。修治さん、たくさんたくさん書いて。そして、生きて。白髪のおじいさんになるまで生きて」
修治さんは答えず、まるで祈る人のように目を閉じました。
それから、静かに語り始めました。まるで原稿用紙に書かれた文字を読みあげるように淀みなく、しかも深い慈しみを込めて。
――本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。せいぜい三四百米ほどの丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの地図には載っていない。むかし、このへん一帯はひろびろした海であったそうで、義経が家来たちを連れて北へ北へと亡命して行って、はるか蝦夷の土地へ渡ろうとここを船でとおったということである。
それは炭焼小屋で、父親と二人だけで暮らしている少女の物語でした。
少女の名は、〝スワ〟というのです。どうしてその名が付けられたのか、知っているのはきっとわたしだけでしょう。
そう思うと、ちょっと鼻が高い気分でした。
でも、もっと驚くことがありました。なんとそれは、わたしの物語だったのです。
わたしの、十七年間の人生。
それが一篇の不思議な物語に生まれ変わっていたのです。
昨日の晩、修治さんの腕の中で話した、わたしの十七年間の人生。それが一篇の不思議な物語に生まれ変わっていたのです。
わたしの人生とスワの物語は、一見全然違うにも拘らず、聞いてすぐわかりました。わたしは黙っていましたが、もし口にしていたら、修治さんは何と言ったでしょう。女の勘ってやつか。わざと顔を顰めてそう言って、わたしのおでこをひとつ突っついたかもしれません。
スワの父親は、作った炭を麓の村へ売りに行きます。それがいい値で売れると、父親はいつも酒くさい息で帰ってくるのです。
ある夜、炉端で藁蒲団を被ってひとり寝ていたスワは、無残にも何者かに犯されてしまいます。
「スワを犯したのは、父親なのね。可哀相なスワ……」
「それは想像に任せるよ」
小屋を飛び出したスワは、滝壺に飛び込みます。以前、やはり滝壺に落ちて死んだ〝都の学生〟のように。
その学生とは、誰なのでしょうか。修治さん自身のようでもあり、また和夫さんのようでもありました。
「ねえ、滝壺に飛び込んだスワは、どうなるの」
「大蛇になるのさ」
文士様は、澄まして答えました。
「大蛇は厭だわ」
「それなら鮒はどうだい、小さい鮒は? この小説の題名も『魚服記』にしよう」
「そうね。鮒の方が、かわいらしくていいわ。人間なんて辛いことばかり。もう、たくさん」
修治さんは、わたしの背中をやさしく撫でながら――「…………」
「え」
瞼を閉じかけていたわたしは、はっと修治さんの顔を――いえ、口元を見つめました。
「何ておっしゃったの、今」
「太宰治」
「ダザイ……オサム」
「新しい、僕の名さ」
――ダザイ、オサム。
その響きが、すとんとわたしの胸に落ちました。
初めて聞いたのに、ずっと前から知っていた名前のような、これこそ、この人の本当の名であるような気さえしました。
「いい名前だわ」
「吾輩は、太宰治である。どうだい、この発音は? 僕がどこの出身かわかるかね」
「東京の方でしょう」
ふふ、と〝太宰治〟は笑いました。
わたしも微笑み返そうとして、瞼が重くて持ち上がらなくなっていることに気づきました。
いつの間にか眠気が、身の中にひたひたと満ちていました。
それはいつか岩にぶつかる波の動きと連動して、ゆっくり寄せてきたかと思うと、また穏やかに返していくのでした。
わたしは自分がその静かな波動の中に引き込まれたり、また浮かび上がったりするのを快く感じていました。
海や岩が遥かな太古の夢でも見ているかのように、世界は深く深く静まり、わたしたちはそんな途方もなく大きな夢の揺り籠に、やさしく揺すられているのでした。
その時、ひと筋の光が差しました。
荒野をしらじらと照らす、凍えるような星の光とは違います。海の彼方から、静かに伸びてくる光の道でした。
それはわたしの上に留まり、後から後から降り積もり、やがてわたしをすっぽりと包み込みました。
気がつくと、わたしは見渡す限りの美しい草原の中に立っていました。
草原の果てには一本の椎の木があって、枝いっぱいに生い茂った若葉が、まるで歌でもうたうように、柔らかな風に戦いでいるのです。
――しいちゃん……
遠く遠く、わたしを呼ぶ声が聞こえた気がして、わたしは思わずそちらへ目をやりました。
――あっちゃん……
すると今度は別なところから、小さな含み笑いを含んだ声が聞こえてきました。
わたしは目を閉じて、貝が潮騒を懐かしむように耳を澄ましました。
十七年間の人生の中で、わたしはこの二人の男の人と恋をし、そして、せいいっぱい愛したのでした。
誰かを愛することのできた人生は、たとえ短くても、決して不幸ではなかったと思います。
修治さんと和夫さん。
ふたりの顔の造作は全く違うのですが、笑った時の印象はびっくりするほどよく似ていました。
照れたような、ちょっと困ったような、あのやさしい笑顔。
わたしを地獄に誘い込むメフィストフェレス?
いいえ、あの笑顔は誰よりも天使に似ていました。自分のやさしさを持て余し、気弱げに笑っている天使。
天使は、人の子を助けることはできません。
天使にできることは、ただ人のために泣くことだけなのです。
――罪の子。
修治さんは、自分は罪の子だと言いました。
修治さんが罪の子なら、こうして全てを放り出し、勝手に死を選ぼうとするわたしもまた、罪の子に違いありません。
でも、あの笑顔に見送られるなら、たとえ地獄に落とされてもいいように思えました。
またわたしを呼ぶ、二つの声が聞こえてきます。
――ありがとう。でも、もういいの。自分の罪は、自分一人で背負っていきます。
わたしは再び瞼を開けました。目の前には、思った通りの人が立っていました。
武雄兄の部屋の臨時アトリエで、和夫さんの絵のモデルになった少女。
動くなと言われて息まで止め、もう少しで失神するところだった少女。
三つ編みの髪の先を指で弄びながら、夢中で文学の話をしていた少女。
わたしは、その三つ編みの少女に――光の中のわたしに、両手をそっと差し伸ばしました。