『太宰治は、二度死んだ』終章・鎌倉篇(第29話)
「死ぬかい?」
修治さんが言いました。
「死ぬわ」
わたしは答えました。
「僕と、一緒に死んでくれるんだね?」
わたしは首を横にふりました。
「違うわ。わたしが死にたいの。修治さん、わたしと一緒に死んで。お願い」
わたしたちはそのまま下り電車に乗って、鎌倉へ行きました。
鎌倉に着いた時には、もうとっぷりと日が暮れていて、駅の近くの小さなホテルに、わたしたちは泊まることにしました。
ありがたかったのは、武雄兄が生活費の足しにとわたしにお金を渡してくれていたことです。
その夜、わたしはついに修治さんと結ばれました。
修治さんは信じられないほどやさしくて、わたしは生まれて初めて男の人に抱かれる歓びを知った気がしたのでした。
夜更け頃、修治さんの腕を枕に、わたしは憑かれたように語り続けました。
わたしの物語を。
十七年で終わる、わたしの人生を。
十七年。そうなのです、わたしの年は数えでは十九ですが、満年齢では十七です。
わたしの誕生日は大正元年十二月二日。今日が昭和五年十一月二十八日ですから、満年齢で計算すると、僅か数日の差で十八歳にもなっていないことになります。
なんだか笑いたいような、泣きたいような不思議な気持ちでしたが、それよりびっくりしたのは、修治さんの方が先に涙を零したことでした。
修治さんはわたしの物語を黙って最後まで聞いてくれ、そして黙って泣いたのです。
男の人が、こんなふうにあけっぴろげに泣くのを見たのは初めてで、わたしはちょっとあっけにとられてしまいました。
修治さんの、まるで欧羅巴人のように長い鼻梁を、涙が静かに伝い落ちました。
修治さんの涙によって自分の身体が少しずつ浄化され、透き徹っていく気がしました。
いつか快い眠気に誘われ、わたしはずいぶん久しぶりにぐっすりと、夢も見ぬほどの深い眠りに落ちていったのです。
翌朝目覚めた時は、既に十時を回っていました。
わたしがここにいることは誰も知らない。
順蔵も、ホリウッドの支配人も、誰も知らない。
そう思うと、子供が大人の目を盗んでうまく悪戯をやりおおせたような愉快さを覚えました。
小さなけれども、なかなか洒落た雰囲気の、いいホテルでした。
朝食のベーコンエッグもとても香ばしくておいしくて、こんなことを言うのはひどく矛盾しているし、滑稽ですらあるのですが、わたしはなんだか幸福でした。
修治さんは、妙に落ち着いていました。
今までいろいろと、わたしに〝弱さ〟を曝け出した人とは思えぬほど、とてもしっかりして見えました。背筋まですっと伸びた感じなのです。
不思議なことに、死を決意した途端、世界がひっくり返ってしまったみたいでした。
わたしはうっとりと幸福に酔い、修治さんは大層立派に、そして頼もしくなったのです。
わたしがそう言うと、修治さんはもったいぶって、「うむ」と肯きました。「剣の達人の微笑だね。自分が強いとわかっている人間は心に余裕がある。だから自然と微笑が浮かぶのさ。眉間に皺なんか寄せてる間は、まだまだ修行が足りないね」
「修治さんは、宮本武蔵みたいな剣豪になったのね」
「いかにも」
わたしは、ぷっと吹き出しました。
剣豪さんがついていてくれるのです。もう怖いものなんて、何もなくなりました。
お腹いっぱい食べて、わたしたちはホテルを出ました。
鎌倉駅で、江ノ電に乗りました。
江ノ電というのは小さな、可愛らしい電車で、それがごっとんごっとんと走る様子は、まるでお伽の国の乗り物でした。
極楽寺の隧道を抜けて、稲村ケ崎を過ぎた後、江ノ電は右にカーブを切りました。
その瞬間、ぱっと視界が開けたのです。
「あ、海!」
わたしは子供のように声を上げて、窓に飛びつきました。
東京はあんなに寒かったのに、鎌倉の海はいかにも暖かそうに、穏やかに凪いでいました。
「ここで下りよう。ちょっと行きたいところがあるんだ」
そう言って修治さんが座席から立ち上がったのは、腰越駅でした。
線路を跨ぎ越して、石段を上り、満福寺の山門をくぐります。
満福寺は源義経ゆかりのお寺です。
壇ノ浦で平家を滅ぼす大功を立てながら、義経は兄頼朝に疎まれて鎌倉に入ることを許されず、満福寺でその無念の思いを縷々と書きつづりました。
これが世に名高い〝腰越状〟で、その下書きと伝えられる書状が満福寺に残っているのです。
「これは本物かなあ。『吾妻鏡』の記載と全く同じ内容っていうのが、逆にちょっとあやしいんだがなあ」
そう言いながらも、修治さんは存外真面目な顔で、腰越状の展示をじっと眺めていました。
義経の悲劇に、長兄文治さんと自分との関係を重ね合わせていたのかもしれません。
満福寺を出た後、腰越の鎮守である諏訪神社にもお参りしました。
「僕はどうも諏訪という名に縁があるようだなあ」
修治さんは呟くように言いました。
「そう言えば、修治さんの下宿があるのは、戸塚町諏訪だったわね」
「スワと読むと諏訪だけど、スワと読むと、女の人の名前みたいだね。この神社におわすのは女神かもしれないな」
そんなことを言って、修治さんは笑いました。
諏訪神社を出た後、海岸の方へ出ました。
この海岸は袂ヶ浦と呼ばれているところで、向かって右手に、崖が海中に突き出すように伸びています。その崖を小動崎というのです。
砂浜に、ボートみたいに小さな船が一艘、逆さまに置かれてあり、そこにねじり鉢巻き姿の漁師らしい男がひとり立っていました。
修治さんはその男に近づき、何やら尋ねていましたが、やがてにこにこしながら戻ってくると、
「ちょっとここにいよう。いいこと考えたんだ」
わたしの耳元で囁きました。
そのあと暫く、修治さんとわたしは波打ち際をぶらぶら歩いたり、砂浜に座ってぼんやり海を眺めたりして時を過ごしました。
漁師らしい人もどこかへ行ってしまい、辺りには誰もいなくなりました。
「よし行こう」
修治さんは立ち上がって、お尻についた砂を払いました。
「どこへ行くの」
「あの崖の向こう側――外浦と言うそうだが――に回り込むんだ。そこに畳岩という大きな平たい岩があるらしい」
でも、小動崎を袂ヶ浦から外浦に回り込むのは、そんなに容易なことではありませんでした。
小動崎というのは離れて眺める限りには、ただの小さな崖にすぎないようなのですが、近づいてみると、ちょっとした断崖絶壁みたいな感じで、誤って足を滑らせれば、そのまま海に落ちてしまいそうです。
なぜ修治さんが、漁師のいなくなるまで待っていたかわかりました。
こんな季節に崖にしがみついている男女の姿などを見られたら、それこそ大騒ぎになるに決まっているからです。
ふだんなら、こんなことは修治さんの最も苦手とするところに違いありません。
ところが、今や剣豪のように落ち着いている修治さんは、わたしの手をしっかり握りながら、足を洗うように打ち寄せる波の上を、岩の窪みを見つけ見つけ、器用に崖の外周を移動していくのです。
しかも、義太夫を習ったことのあるらしい寂声で、
「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとうれば、あだしが原の道の霜……」
と『曽根崎心中』の道行まで語り出すので、わたしは驚くより呆れてしまい、ついくすくす笑い出してしまいました。
「滅びゆくものはね、意外と明るいものなのさ」
修治さんが言いました。
小動崎は七里ヶ浜側から眺めると、海に少し突き出た丸い崖という印象ですが、外浦側に回り込むと、巨石がごろごろ転がっていて、古代そのままのような荒々しい景色を見せるのです。
そして確かに、大きな畳のように平たい岩が海面から出ていました。
わたしと修治さんは、その岩の上に寝転がりました。崖のこちら側は風が遮られるのか、岩は陽を吸ってぽかぽかと温かく、どんな岩質なのか、不思議に少し柔らかくさえ感じられました。
岩の褥の上で、わたしたちはどちらからともなく、抱擁し合いました。