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『太宰治は、二度死んだ』第三章・東京篇Ⅱ(第28話)

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 わたしは、新橋駅にいました。
 先ほど見送った武雄兄と秋乃さんの顔が、瞼を離れませんでした。
 二人が東京へ来たのが十一月二十五日。東京見物も二十六日の僅か一日だけで、二十七日にはもう慌ただしく広島へ帰っていったのです。
 二十五日と二十六日は、わたしもホリウッドを休んで、兄夫婦と一緒にいました。
 東京に着いた日の晩は、順蔵も一緒に食事をしたのですが、兄夫婦がかなり露骨にわたしにだけ話がある様子を示しましたので、順蔵もさすがに何か感じたらしく、ひとりで内幸町のアパートに戻り、わたしは兄夫婦とホテルに泊まりました。
 翌日も一日、兄夫婦の東京見物に付き合い、その夜もホテルに泊まりましたので、その間ずっと、わたしは内幸町のアパートには戻っていなかったのです。
 兄夫婦の話は、既に和夫さんから聞いていた、例の台湾へ渡る一件以外では、順蔵とは早く別れた方がいいという内容でした。
「毎日何もせんと、自分より年下の女にのうのうと食わしてもろうとる男がどこにある!」兄は歯がみするほど怒りを露わにし、「わしがあの男と話をつけちゃる」と今にも順蔵を呼び出しそうにしました。
 秋乃さんは兄を止め、喧嘩になって相手がやけになっても困る、ここはひとまず広島に帰って、シメ子さんを迎える方法を考えた方がいいと主張し、わたしもそれに賛成しました。
 今まで鳴りを潜めていたあの男の暴力性が、これを機に一気に暴発するのを恐れたためです。
 ただ、今のわたしの状況が兄夫婦の思っているより複雑なのは、修治さんのことがあるからでした。
 わたしがとうとう、二人に修治さんのことを言い出せなかったのは、修治さんは修治さんでかなり深刻な、やっかいな事態に立ちいたっていたからです。
 わたしは、電車が去った後の新橋駅のホームにひとり立って、これからどうしたものかと思いました。
 今日は遅番なので、ホリウッドは夜からですが、その前にやはり新橋駅の前で、修治さんと会う約束になっていたのです。
 
 文治さんからの連絡を受けて、野沢家の主人の息子が上京したのは十月末のことでした。
 初代さんは野沢家の人を見ると鬼でも見たように脅え、自分は絶対に帰らない、無理に連れて帰ると言うなら舌を噛み切って死んでやるとわめき、修治さんの部屋は修羅場と化したそうです。
 野沢家の人は、最初は念書を取ろうとしたそうですが、初代さんの態度があまりに強硬なので、やむなく一旦青森に戻りました。
 その後すぐ、文治さんから「自分が一度上京する」という連絡が入りました。
 そして、文治さんは今まさに東京にいて、修治さんとこの件について話し合っているのです。
 わたしが兄夫婦と一緒に東京の名所を回りながら、心が終始しゅうしうわそらであったのは、修治さんと文治さんの話し合いの結果が気がかりでならなかったからです。
 ホリウッドにおける修治さんのツケは、もうどうにもならない金額にまでふくれ上がっていました。
 わたしは支配人に何度も呼ばれ、そのことを問い詰められていました。
 わたしは、修治さんが決して素性すじょうのいい加減な人でないことを繰り返し説明し、最後は拝み倒すようにして、十一月の末までに耳を揃えて完済するという条件を呑んでもらっていました。
 わばかろうじて首の皮一枚でつながっている状態だったのです。
 まだ昼前で、修治さんと約束した四時までには時間がありましたが、内幸町のアパートに戻って順蔵と顔を合わせる気にはなれませんでした。
 どうしようかと思案しているうちに、ふと、こんな考えが頭に浮かんだのです。
 ――和夫さんを訪ねてみようかしら。
 
 和夫さんの下宿は、本郷にありました。
 住所は和夫さんが初めてホリウッドに見えた時、紙に書いて渡してくれていましたので、場所はすぐにわかりました。
 でも、下宿の前まで来ると急に気後れがしてしまい、坂を上がったり下りたり、暫く近所をうろうろしていました。
 風の強い日で、坂の上には砂埃が舞っていました。
 目にほこりが入るので、襟巻に顔を埋めるようにして何度か風をやり過ごさなければなりませんでした。
 こよみの上ではまだ晩秋でしたが、これが東京の空っ風というものなのか、寒さが骨にまで沁みとおるようでした。
「しいちゃん、しいちゃんじゃないか」
 いきなり呼びかけられました。
 はっとして振り返ると、坂の下に和夫さんが立っていました。
 
 和夫さんの居室きょしつは二階の角部屋で、こざっぱりとした、陽当たりのいい部屋でした。
「今日は授業が午前だけじゃったけぇ、よかった。もうちいとで無駄足させてしまうところじゃった」
「あそこにあるのは、全部東京に来てからお描きになったの?」
 わたしは壁の一廓いっかくを指差しました。
 そこには何枚ものキャンバスが、おそらく陽に焼けないようにする用心でしょう、裏返しに立て掛けてありました。
「うん、みんな東京に来てから描いたもんじゃ。一枚だけ、違うんじゃが」
「頑張ってらっしゃるのね」
「絵を描くために、親に無理言うて東京に出てきたんじゃけぇ、描かにゃあ嘘じゃろう」
 和夫さんは照れ臭そうに笑いました。
「そうだ、しいちゃん。ええ機会じゃけぇ、後でしいちゃんをデッサンさせてくれんか」
「……」
「それとも、今日はこれから予定があるんかな」
「四時に新橋駅で人と会う約束をしてるんだけど、それまでなら大丈夫」
「そりゃあ、げによかった。ありがとう。ああ、僕としたことが、お客さんにお茶も淹れないで……」
「あ、お茶ならわたしが淹れるわ。和夫さんは座っていらして」
「いや、大事なモデルさんにそんなことさせられん。しいちゃんは大威張りで座っとって下さい」
 和夫さんは火でも煽ぐように手を振りました。
「わかったわ。じゃあ、ご馳走になります」
 わたしはキャンバスが置いてある壁の方へ歩み寄りました。
「これ、見せていただいていいかしら」
「もちろんじゃ。好きなだけ見ていいけぇ」
 そう言って、和夫さんは階段を下りていきました。
 一枚、それからもう一枚。わたしは和夫さんの絵を見ていきました。
 ルノワールが一番好きだという和夫さんの絵の中には、やさしくて柔らかな光が瀰漫びまんしているようでした。
 特に、本郷の街の風景を描いたらしい一枚に強くかれました。
 坂を行き来する人の中に、ひとりの小さな女の子がいました。左手を父親と、右手を母親とつないで坂を上っていく後ろ姿です。
 その絵を眺めていると、女の子の舌ったらずな話し方や、それをにこにこ聞いている母親の顔。下駄の立てる軽やかな音までが目に浮かび、耳に聞こえるようでした。
 他には静物画が何枚かありましたが、最後に一番奥にあったキャンバスを手に取ったわたしは、電気にでも触れたように、どきりとしました。
 
「お待たせしてしもうて」
 和夫さんが戻ってきたのはわかっていましたが、わたしは振り向くことができませんでした。
「歩いてきて喉が渇いたじゃろう。粗茶じゃけど、飲んで下さい」
 わたしが何も答えないので、変に思ったのでしょう。和夫さんは傍らにきて、ちょっとわたしの顔を覗き込むようにしました。
「しいちゃん、どうしたんじゃ? 泣きよるのか」
「なんでも……なんでもないの」
 わたしは、手でごしごしと顔を擦りました。
「ごめんなさい。わたし、もう帰ります」
 わたしは自分のハンドバックを手に取ると、そのまま部屋を出ようとしました。
 すると和夫さんが、後ろからわたしの腕を強く捉えました。
「待ってくれ、しいちゃん。わしゃ何がなんかわからん。いったいどうしたんじゃ? ちいと落ち着いて話してくれんか」
 わたしは身をよじって、和夫さんの腕を振りほどきました。
「お願い」
 震える声を絞り出しました。「お願いだから、追ってこないで。わたしの身体は、もうあなたが思っているようなきれいな身体じゃないの。けがれた、きたない身体なの」
 追いかけてくる和夫さんの、その切迫した声からのがれるように、わたしは階段を殆ど転げんばかりに駆け下りると、和夫さんの下宿を飛び出しました。
 そして、坂の多い本郷の街を、めくら滅法に歩いたのです。
 ――一枚だけ、東京で描いたのではない絵がある。
 それは、〝本を読む少女〟でした。
 和夫さんはあの絵を、広島から持ってきていたのです。
 ――和夫さん……
 ぬぐっても拭っても、涙が目からあふれ流れました。しまいにはこらえ切れずに、びょうびょう泣きながら歩きました。
 擦れ違う人が皆、振り返って不思議そうにわたしを眺めていました。
 ――さようなら。もう、二度とお会いできません。
 
 どこをどう歩いてきたのか、わたしは汐留しおどめ川に架かる新橋の上から、ぼんやり川面を眺めていました。
 ずっと川下の空には僅かに残照がありましたが、川面は黒々と沈んでいました。
 誰かが、わたしの肩を軽く叩きました。
「修治さん……」
 傍らに立ったその人を、わたしは見上げました。
「さっきも声を掛けたんだぜ。あんまりぼんやりしてるから、身投げでもするんじゃないかと心配したよ」
 口ではふざけたようなことを言いながらも、修治さんの目は笑っていず、じっとくらい川面を見つめていました。
「どうだったの? お兄さんとのお話は」
勘当かんどうされたよ」 
「勘当って……」
 真っ黒な水面が、みるみるわたしたちの方に近づいてくる気がしました。
「兄は僕の話を何も聞いてくれなかった。分家ぶんけ除籍じょせきする。それだけ申し渡された。分家と言っても、財産分与は一円もないと言うんだから、実質的な勘当さ。向後こうご一切いっさい、仕送りも打ち切られるそうだ。でもその代わり、初代を身請みうけして僕と結婚させてくれるんだってさ。初代は、兄が一旦青森に連れ帰ったよ」
 修治さんが、〝結婚させてくれる〟という言葉を口にした時、そこには言い知れぬ自嘲の響きが籠っているようでした。
「なあ、あっちゃん」
 修治さんの声が、風と混じってわたしの耳朶じだを打ちました。「死のうか、一緒に」
 ――橋を行き交う人や車の物音が、すっと遠ざかりました。


※「第三章・東京篇Ⅱ」完。次回から「終章・鎌倉篇」に入ります。

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