見出し画像

『太宰治は、二度死んだ』第三章・東京篇Ⅱ(第21話)

前話 / 次話 / 第1話

 
 待つというのは、不思議です。
 わたしに支払いの立て替えを頼んだ日をさかいに、修治さんはふっつりとホリウッドに来なくなってしまいました。
 最初のうちこそわたしも腹を立て、次に来たらうんとつれない素振そぶりをしてやろうとか、辛辣しんらつな皮肉を浴びせてやろうなどと、修治さんをいじめる方法をいろいろ考えて溜飲りゅういんを下げていたのです。
 ところが、来て下さらない日が二日になり、三日となると、だんだんひりひりとけつくような不安にさいなまれるようになり、しまいには居ても立ってもいられなくなってしまいました。
 ――お金のことは、本当に心配しなくていいのに。
 嘘ではありません。わたしは修治さんを信じています。
 修治さんが月末に払って下さるとおっしゃるなら、それを信じます。
 支払いを立て替えろと言うなら、いくらでも立て替えてさしあげます。
 修治さんが生活の上で何か深刻な問題を抱えているらしいことに、わたしは以前から気づいていました。
 でも修治さんは、いつも莫迦ばかなことを言ってわたしを笑わせる癖に、肝心なことはちっとも話してくれないのです。
 この間ふっと洩らした〝工藤〟という男のことなども、瞬時にしまったという顔になり、あとは貝のように口をつぐんでしまいました。
 お目付け役のキタさんという人のことも、頭をよぎりました。
 キタさんにいさめられ、
「もう二度とホリウッドには行かない」
 と誓わせられている修治さんの姿が目に浮かびました。
 ――そうだ、きっとそうに違いない。修治さんは、もういらして下さらないのだ。わたしはこれから二度と修治さんの顔を見ることも、あの大好きな声を聞くこともできないのだ……。
 そんなふうに勝手に思い込み、休憩時間に裏口から路地へ泣きに出たことも、一度や二度ではなかったのです。

「修治さん!」
 一週間ぶりにようやく修治さんが、あの長身をちょっと猫背にしてお店の中へ入ってきた時、わたしは飛び立つように迎えてしまいました。
 待っていた間に考えたこと。辛かったこと。山のようにあったうらごとが全て溶けるように流れさり、あとに残ったのはただただ懐かしい気持ちばかり。修治さんの首に腕を回し、わんわん泣きたい気落ちを抑えるのに、わたしは精いっぱいでした。 
「ひどいわ。一週間もお顔を見せて下さらないなんて」
 弱弱しくねてみせるような言葉しか、口から出てこないのが自分でも情けなく、なんだかすっかり都合のいい女みたいで、もしこれが修治さんの、女を落とす手なのだとしたら、わたしは見事に修治さんの術中じゅっちゅうにはまったことになるのかもしれません。
「これだって、家に電報まで打ってなんとか仕送りを早めてもらったんだぜ。あっちゃんに会いたい一心でさ。よくやったとねぎらいの言葉のひとつくらい、かけてもらいたいもんだね」
「お金のことは大丈夫だって言ったでしょ」
「そうはいかない」
 修治さんは存外真面目な顔で言いました。「僕はこの世で何が嫌いって、女のヒモになる男が一番嫌いなんだよ」
「あら、人格ご高潔でいらっしゃること。でも、どうなのかしら? どこか別なところにいい人でもできたのではなくって? わたし、修治さんはドン・ファンなのかと思ってたわ」
「ドン・ファンとヒモは違うよ。まあ、ドン・ファンなら悪くないな。西鶴の『好色一代男』の世之介、あれはドン・ファンだね。ああいう男は愛嬌があって、憎めない。どこかにユーモアがあるんだね。西鶴は、偉い作家だよ。モウパスサンより偉いんだ」
「わたしは、西鶴やモオパスサンなんかより、修治さんの作品を読んでみたいわ」
「だから、今日は持ってきたよ」
「ほんとう? じゃあ許してあげる」
 修治さんは、ふふふと女の人のような含み笑いをしました。照れているのです。
 わたしはずいぶん前から、修治さんが高校生の時に書いたという小説を見せてくれるよう、おねだりしていました。
 わたしは知りたかったのです。
 わたしの見たことのない、青森時代の修治さんのことを。
 高校生だった修治さんは、いったいどんなことを考えて、毎日を過ごしていたのでしょうか。
 その人が書いた文章を読むことは、写真を見るよりもっとずっと多くのことを伝えてくれるような気がするのです。
 
 ――『細胞文藝』。
 高校二年生だった修治さんが創刊した同人誌です。
 なかなか洗練された装丁で、なんとカラーページまで付いていました。
 とても高校生が創ったものとは思えない出来栄えで、わたしは丁寧に雑誌を手に取りました。
 高校生の修治さんの文学への情熱がページの隅々にまでみなぎって、光を発しているようでした。
 文学志向の高校生が、仲間たちと一緒に同人誌を創刊するのは別に珍しいことではないようですが、『細胞文藝』が特別なのは、修治さんがたった一人で創った雑誌だったということです。
 修治さんの話によると、同人誌発刊の際問題になるのは、一に資金、二に編集なのだそうです。
 雑誌を創刊するのはけっこうお金のかかるものらしく、だからこそ何人もの同人を集めて資金を分担する必要があり、また煩雑な編集作業も複数の同人で分担しなければなりません。
「ものを書きたい人間はけっこういるから、同人を集めるのはそんなに難しいことじゃない。でも、その中から必ず何人か、金を出し渋ったり、編集作業を面倒臭がって逃げるものがでてくるんだ」
 同人が全員高校生では、それも無理はないのかもしれません。でも、その結果内輪うちわもめになって、大部分の同人誌は創刊号だけで廃刊になってしまうのだそうです。
 そういう同人誌を、修治さんは自分だけの力で創ったと言うのです。
 修治さんがお金に不自由しない家の子だったことは大前提としても、そのために払った努力の大きさは、何人なんぴとたりとも否定できないに違いありません。
「おかげで学校の成績は一気に下がっちまった。一落いちらく千丈せんじょうとはこのことだね」
 作品を書くだけだって大変な時間と労力でしょうに、そのうえ一人で編集から何から全部やって、しかもこんな凝った雑誌にしようというのですから、お勉強の時間がなくなるのも当たり前です。
 これでも既に十分、高校生の趣味の域を超えていますが、修治さんがこの同人誌のためにしたことは、まだ終わりではなかったのでした。
「東京の新人作家に手紙を出して寄稿をお願いしたの? 高校生の修治さんが?」
 わたしは、ぽかんと口を開けてしまいました。
 いくら新人と言っても、東京の文壇に自分の席を持っている作家に、地方の一高校生が寄稿をお願いする。そんな話は前代未聞でしょうし、向こうが笑って無視してくれればまだしも、非常識だと叱責されても仕方がないのではないでしょうか。
 ところが――
「本当に書いてくれたの? その新人作家の先生が?」
 信じられません。ずいぶん奇特な先生も、いればいたものです。
「どなたなの? その作家って」
「井伏さんさ」
「井伏さんですって!」
 わたしは思わず頓狂とんきょうな声を張り上げてしまいました。「その方、今の修治さんの先生じゃないの」
「そうさ。井伏さんの原稿をいただいた時は、本当に嬉しかったな。原稿料として五円をお送りしたのだが、快く受け取って下さってほっとした。井伏さんとの付き合いは、その時から始まったんだ」
「五円……」
 その金額にも驚いたのですが、同時にわたしは、修治さんの隠れた一面を覗き見た思いもしたのです。
 この人は他の方面ではいろいろ〝弱い〟ところがあるのに、こと小説に関しては、逆に非常に〝強い〟のです。
 既に文壇で認められている作家が、なぜ田舎の高校生の同人誌に寄稿してくれたのか、その理由がやっとわかりました。原稿料が破格の高さだったのです。わたしは作家の原稿料の仕組みについては何も知りませんが、それでも、修治さんが井伏先生に支払ったという五円の原稿料が、尋常な金額でないことはわかりました。
 東京の作家の原稿を掲載する。
 それは、『細胞文藝』に大いにはくを付けたことでしょう。
 でも、修治さんのねらいはそれだけではなかったのです。
 修治さんの本当の目的は、自分と東京の作家との間につながりの糸を張ることにありました。
 大学生としてはでたらめでも、こと作家の道に関しては、修治さんは極めて真摯しんしに、計画的に進もうとしていました。高校の時から緻密に、そして大胆に、一つずつ布石を打っていたのです。
 逆に言えば、きっと修治さんは高校生の時から、なりたいものは作家しかなかったのです。他の何者にもなりたくなかったのです。
 わたしはゆっくり頁をめくってみました。
無間むげん奈落ならく』という題名があり、作者は〝辻島衆二〟となっていました。
 辻島衆二。
 高校生の修治さんが一所懸命に考えた筆名なのかと思うと、この四つの文字が、思わず指でなぞりたくなるほど愛おしく感じられました。
「これは、どんな小説なの?」
 修治さんの答えは、題名からは予想できないものでした。
「母恋の物語さ。読んだ人は、誰もそうは思わないだろうがね」
 わたしは黙って修治さんを見つめました。
「僕はね、あっちゃん」
 思わずどきりとしたほど、修治さんの目は深い哀しみの色をたたえていました。「本当の母が誰なのか、実はよくわからないんだ」


前話 / 次話 / 第1話

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切: