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『太宰治は、二度死んだ』第三章・東京篇Ⅱ(第22話)
その日、内幸町のアパートへ帰ってから、わたしは豆電球の灯りの下で、『細胞文藝』創刊号の表紙を開きました。
どこから這入り込んだのか、小さな蛾が一匹、豆電球にぶつかってぱさぱさという音を立てました。
順蔵はいつものように酒くさい鼾をかいて寝ていました。
足に煙草の火を押しつけて、わたしを拷問したあの夜からずっと、順蔵は妙におどおどと、わたしに対して遠慮する態度を見せているのですが、こうして毎日仕事もせず、お酒を飲み、気楽そうに寝ている姿を見ると、なんだか得たいの知れない生き物が横たわっているようでもありました。
新天地でやっていたチロルにしても、自分がマスターでありながら、仕事は全てわたしに押しつけて平気でいましたし、そもそもチロルの開店資金だって、全て祖母にあたる人に出してもらったものです。
順蔵には、その根っこの部分にどうしようもなく甘ったれたところがあり、この男にとって生活とは、要するに適当な〝宿主〟を探し出し、そこに寄生することではないかとさえ思われるのです。
わたしは深いため息をひとつ吐くと、『細胞文藝』に目を戻しました。
『無間奈落』――長兄文治さんの怒りを買い、連載僅か二回で中絶せざるを得なかったという作品の、その第一回を読み始めました。
それは、救いのない物語でした。
地主の大村周太郎は淫蕩な人で、妻も妾もいるのに、若い女中を無理矢理手籠めにしてしまいます。
女中が周太郎の子を宿したため、こちらも妾にするのですが、そのことが元々いた妾の妬みを買い、生まれた子は盗まれ、どこかに隠されてしまうのです。
望んで宿した子ではないとは言え、自分の血肉を分けた存在を奪われた女中は、ついに発狂してしまいます。
――この周太郎のモデルはね、津島源右衛門。僕の亡父さ。
修治さんは、わたしにそう教えてくれました。
この作品の奥からは、修治さんの血を吐くような叫びが聞こえてきます。
――いったい、僕は、何者なのか。
自分は、源右衛門の正妻タ子のお腹から生まれた子ではないのではないか。
修治さんは生後一年もしないうちに、なぜか津島家に同居していた叔母キヱに預けられたのだそうです。
そして満二歳になる直前、タケという若い娘が女中として雇われ、修治さんの面倒を見ることになります。
修治さんは、昼間はずっとタケと一緒に過ごし、夜は叔母のキヱと同じ蒲団で寝ていました。
そうした生活が小学校へ上がるまで続いたため、修治さんは叔母のキヱを生母だと信じていました。
でも、幼い修治さんにとって一番大きい存在は、キヱよりもむしろタケだったというのです。
――タケは僕に本を読むことを教えてくれた。僕に言葉を授けてくれた人は、タケなんだよ。
この言葉を聞いた時、わたしは身体の芯が震える気がしました。
作家になろうとする修治さんにとって、言葉はおそらくこの世で最も大切なものでしょう。
それを与えてくれたのは、戸籍上の生母でも、小学校に上がるまで生母だと信じていた叔母でもなく、女中のタケだったというのです。
――言葉だけじゃない、タケは僕に道徳も教えてくれた。家の近くにあった雲祥寺というお寺へ連れていって、地獄絵図を見せてくれたんだ。絵の中のある男は、双頭の大蛇に巻きつかれて苦しんでいた。タケはその絵を指差して、お妾を持った男はこうなります、女を泣かせる淫蕩な男は死んでからこういう目に遭うのです、と言った。その時のタケの顔が鬼のように怖くて、僕は声を上げて泣いてしまったものだ。
わたしは、黙って食い入るように、修治さんを見つめることしかできませんでした。
――不思議だろう? 仮にも僕は主家の子供だぜ。それが泣くほど厭がっているんだ、普通ならもう二度とそんな絵は見せないだろう。ところが、タケは僕を何度もお寺へ連れていき、その度に地獄絵図を見せたんだ。
若いタケさんは、なぜ小さな修治さんに地獄の絵を見せたのでしょう。何を伝えたかったのでしょう。
――あの時のタケの声はまだ僕の耳に残っているし、あの恐ろしい顔も目の底に焼きついている。
修治さんは言いました。でもね、同時に僕は思わずにいられない。僕の血の半分は父のものだ、僕にもきっとあの忌まわしい淫蕩の血が流れているんだ、と。
――あっちゃん、だから僕は……。
修治さんは囁くような、それでいてわたしの身体の奥処へ届くような声で言ったのです。
――罪の子なんだ。罪を背負って、この世に生まれてきたんだよ。
わたしはそっと雑誌を閉じました。
明かりの周りを飛び回っていた蛾も、飛び疲れたのか電灯のかげに止まって、じっと羽を休めていました。
目を閉じて、両手を瞼の上に押しあてました。
薄暗い明かりの下で活字を追っていたせいで、目の奥に痺れるような痛みがありました。
閉じた瞼の内側に広がる闇を、わたしは見つめました。
やがて、何処からか、しらじらとした光が差し込み、闇の底を浮かび上がらせました。
凍えるような星の光に照らされた荒野。
「修治さん」
思わず声に出して呟いていました。
わたしは闇の中で、高校生の修治さんを抱きしめました。きつくきつく抱きしめました。
自分は、何者なのか。
それを知りたくて、答えを見つけたくて、必死に小説を書こうとしている一人の少年を。
修治さんもまた、わたしと同じようにしらじらと広がる荒野を見た人なのです。
滅びの雨に、その身を打たれ続けている人だったのです。