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『太宰治は、二度死んだ』第三章・東京篇Ⅱ(第23話)

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 夏がゆき、いつか秋風の立つ季節になっていました。
 そんなある日のこと、ホリウッドにやってきた修治さんを見て、わたしは思わずあっと叫びそうになりました。
 修治さんの顔はすっかり血の気が引いて、まるでろうでも塗ったようでした。
 時刻はまだ宵の口で、先ほどザアッとひと雨きたのですが、その中を傘も差さずに歩いてきたと見え、全身ぐっしょりと濡れていました。
「どうなさったの?」
「なんでもない。ビールだ、あっちゃん。ビールをくれ」
 急き立てるように言うので、慌ててお出ししたのですが、わたしがビールを注ごうとしても、うまく注げずにグラスの縁からこぼれてしまうのです。
 グラスを摑んだ修治さんの手が、激しく震えているからでした。
「修治さん、教えて。いったい何があったの」
 答えずに、修治さんは一気にビールをあおりました。
 そして、乱暴に口をぬぐうと、ようやくほっと息を吐きました。
 空のグラスにまたビールを注いで差し上げると、くるくると喉を鳴らすようにしてたちまち飲み干してしまいます。
 あっという間に、一本のビールがなくなってしまいました。
「今日は、これで帰る」来たばかりだというのに、もう立ち上がって帰ろうとするのです。
「修治さん、ちょっと待って」
 わたしが思わず叫ぶと、修治さんはゼンマイ仕掛けの人形のようにくるっと振り返りました。
「ごめんよ、あっちゃん。これ、チップ。うっかりしてた」
 わたしの手に、小さく畳んだ紙幣を握らせてきます。
「そんなことじゃないわ。わたしは、ただ……」
「知ってる」
 修治さんは笑いました。いえ、必死に笑おうとしていました。
「今日はせわしなくてすまなかった。また、ゆっくり来る」
「いつ――」
 追いすがるようにたずねずにはいられませんでした。「いつ来て下さるの。明日?」
「いや」
 修治さんの顔に苦い表情が広がりました。
「暫く来られないかもしれない」
「暫くって、どのくらいなの?」
「三日か、四日か。それとも一週間以上か……ちょっと、わからない」
 わたしが何か言おうとしたのを遮るように、修治さんはわたしを軽く抱きしめました。
「さよなら」
 耳元でひとことささやくと、ぱっと身をひるがえして出ていってしまいました。
 呆然ぼうぜんと立ちつくしていたわたしですが、ふと、今修治さんに渡されたチップの感触がおかしいことに気づきました。妙にぶ厚いのです。
 手を開いてみると、紙幣の裏にもう一枚薄い紙が重ねられているのに気づきました。広げてみると、そこには殴り書きの文字が躍っていました。
 
 ――僕ハ、沢田ダ。
 
 沢田。
 修治さんと一緒に観にいった、『ゴー・ストップ』の主人公の名だと直感しました。
 修治さんは、何かをわたしに伝えようとしている。
 わたしは必死に頭を働かせました。次の瞬間、「あっ」と小さく叫んでいました。
「姐さん、わたしちょっと出てきます」
 お島姐さんはとりうちぼうを被った男の人と、さっきからずっと、何か低い声で話していました。
 あの日、お島姐さんのアパートを飛び出して以来、仕事で必要なことを除いて、姐さんと話をしてはいませんでした。
 姐さんの方は、何度もわたしに話しかけようとしてくれていたのですが、わたしがかたくなに姐さんを避けていたのです。
 この時も、姐さんが何か言いたそうな顔をわたしに向けたのが、視界の隅に映っていたのですが、心に余裕がなかったせいもあって、わたしは軽く頭を下げただけで店を飛び出してしまいました。
 必死で走ったおかげで、雑踏の中に消えかけていた修治さんの袖をなんとかつかまえることができました。
 瞬間、修治さんは飛び上がるほど驚いたのです。
 その驚き方がどう見ても尋常じんじょうではなかったので、
「落ち着いて、わたしよ」
 右手で捉まえた修治さんの腕を、子供でもあやすように左手で軽く叩きながら言うと、
「ああ、あっちゃんか」
 修治さんは、やっと安堵したらしい声を洩らしました。
「この紙、どういう意味なの」
 広げた紙片を修治さんの鼻先に突きつけると、わたしは声を落としてたずねました。「修治さん、あなたまさか、何か危ないことに巻き込まれているんじゃ……」
 すると修治さんは、さっと人差し指を立てて唇に当てました。そして素早く辺りを見回しつつ、わたしを路地の奥へ引っ張り込んだのです。
「僕は、警察に、捕まるかもしれない」
 荒い呼吸と一緒に、修治さんはそう言いました。「工藤さ、全部あいつのせいなんだ。あのメフィストフェレスが、僕に食いついて離れねえんだ」
 
 工藤永蔵。
 この男が修治さんの下宿を訪ねてきたのは、上京後間もない五月のことだったそうです。
 工藤は、「自分も津島君と同じく青森中学校、弘前高等学校の出身で、今は東京帝大の理学部に在籍している」と言いました。
 中学・高校・大学の先輩にあたる人を、無碍にできる筈がありません。
以来、工藤は度々修治さんの下宿を訪ねてくるようになりました。
 何回目かの来訪の折、
「折り入ってお願いがある。君を男と見込んで話すんだ」
 と工藤は初めて、自分が共産党員であることを告白したのでした。
「君の書いた『無間奈落』」を読んで、思わず喝采かっさいを叫んだよ。あの津島家から、こんな階級意識に目覚めた男が出るとはね。きんつうかい、これに勝るなし、さ」
 いかにも感心したように言う工藤の前で、修治さんは内心、それは違うと叫んでいました。あれは〝母恋〟の物語であり、自分は何者なのかを見極めようとした小説なのだ、と。
 修治さんが『無間奈落』を書いた真意を理解しなかったのは、工藤だけではありませんでした。修治さんの長兄である文治さんも、愚かな弟が今流行のマルクス主義にかぶれ、亡父の恥部を暴き立てて得意になっていると思い込み、修治さんに作品の連載を中止するよう厳命したのでした。
 とにかく、修治さんの前で共産党員の身分を明らかにした工藤は、既に親切な郷里の先輩の“仮面”を外していました。共産党のシンパになれ、と修治さんに厳しく迫ったのです。
 非合法運動に身を投じている男だけあって、まるで懐に短刀でも呑んでいるような不気味な迫力があり、気の弱い修治さんはたじたじとなって、その場で資金カンパと、必要な時に下宿の部屋をアジトとして提供する約束をさせられてしまいました。
 この時ようやく、わたしは修治さんが以前語った、謎の言葉の意味を理解したような気がしました。
 わたしが生意気にも、友達は選んだ方がいいと意見した時、修治さんはこう言ったのでした。
 ――彼らはあれで、なかなかかわいいところもあるんだよ。ふだんから何も考えちゃいないんだからね。
 工藤という男と比べれば、確かにあの取り巻き連中はかわいいものでした。工藤はわば、〝優秀で、組織的なたかり・・・屋〟だったのです。
 それから、資生堂パーラーでのあの言葉。
 ――僕は自分の役を演じるのに耐えられなくなると、君のところへ来るんだ。今はそれでなんとか微妙なバランスを保っているんだけど、もしこのバランスが崩れたら……。
 わたしは、思わず修治さんの身体を揺さぶるようにして叫んでいました。
「修治さん、しっかりして。変なこと考えちゃだめよ!」
 修治さんは、幼子のように頼りなく首を横に振りました。
「今日、工藤と関係のあった共産党員が逮捕された。幸いなことに、警察が踏み込んだアジトは僕の部屋ではなかったけれど、工藤から緊急の連絡が来て、部屋にある関係文書を全部焼却し、僕も暫くの間、身を隠しているよう指示された」
 警察は共産党員を逮捕すると、仲間の名前を吐かせようとします。殴る蹴るの拷問は当たり前で、もしその人が苦痛に耐えかねて修治さんの名前を出せば、修治さんにもるいが及ぶ可能性がありました。だからこそ工藤は、暫く身を隠せと修治さんに命じたのです。
「修治さん、これからどこへ行くつもりなの?」
「友人の家は足がつく恐れがあるから、どこか旅館でも探すつもりさ」
「お願い。何かあったら、きっとわたしに知らせて。約束よ。よくって」
「あっちゃんを巻き込むなんて、そんなことできない」
「わたしはもう巻き込まれているのよ。いえ、巻き込まれると決めたの」
 一時の衝動と言われればそうかもしれません。
でも、わたしは本気でした。修治さんと一緒なら、地獄に落ちてもいいとさえ思っていたのです。
「わたしと連絡を取りたい時は、お店に電話をかけて。もし心配なら、偽名を使えばいいわ。武雄っていう名はどう? わたしの一番親しい兄の名前なの」
「わかった」
 修治さんはたて続けに何度も頷き、また辺りをきょろきょろ見回すと、足早にこの場を立ち去ろうとしました。
「待って。忘れものよ」わたしはとっさに、その背中に言葉のつぶてを投げつけました。
 怪訝けげんそうな顔つきで振り返る修治さんに、わたしは莞爾にこっと笑いかけました。「お別れの前に、何かすることがあるのではなくって?」
「ああ」修治さんは一つ頷くと、わたしの髪を乱暴に――いえ、そっと撫でました。「あっちゃんには、かなわねえや。君は、女傑じょけつだよ」
 この日ようやく見せてくれた、修治さんらしい笑顔でした。
 
 地に足がつかない気分で歩いていたせいか、ホリウッドに戻ってきた時、戸口から勢いよく飛び出してきた男の人を避けることができず、まともに肩がぶつかってしまいました。
「すみません」
 とっさに謝ったのですが、その人はわたしに一顧いっこだに与えず、逃げるように立ち去りました。
 鳥打帽を目深に被っていたので、顔はよくわかりません。
 わたしはその人が、さっきお島姐さんと一緒にいたお客だったことを思い出し、初めて妙だなと思ったのです。
 ――あのお客さんは、なぜお店の中でも鳥打帽を被っていたのかしら?
 妙な胸騒ぎをおさえながら、わたしは急いでホリウッドの戸を開けました。
「姐さん、どうしたの!」
 思わず大きな声が、わたしの喉から出ていました。
 幽霊かと思うほど、お島姐さんの顔はさおだったのです。それでも、姐さんは「だいじょうぶ」というように、わたしに微笑みかけました――いや、微笑もうとしたようでした。唇の端が引きるように震えた刹那せつな、お島姐さんの身体がいきなり、まるで腰でも抜けたみたいにその場にくずおれたのです。
「姐さん!」
 飛んでいってお島姐さんの身体を支えた時、わたしの右手がぬるりと滑りました。
 何かと思って右手を返してみたわたしは、そのまま凍りつきました。
 わたしのてのひらには、赤い血がべったりとついていたのです。


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