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『太宰治は、二度死んだ』第三章・東京篇Ⅱ(第20話)

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「ねえ、修治さん」
「なんだい、接吻キッスがうまいあっちゃん」
 わたしは修治さんをつまねをしました。
「怒るわよ。ひとが真面目に話しているのに」
「おっかねえな。カチカチ山の兎が、狸を睨んでいるような顔をして」
「どうしてわたしがカチカチ山の兎なの?」
「あの兎はきっと、あっちゃんみたいな美少女なのさ」
「修治さん、わたし本当に打つわよ」
 修治さんは大仰おおぎょうに首をすくめてみせました。
 一見、余裕をもってふざけているみたいですが、たとえ相手がわたしのような小娘でも、実は修治さんは人に怒られるのが怖いのです。
 そういう〝弱さ〟が修治さんの中にはあり、わたしは自分と修治さんとの距離が縮まれば縮まるほど、その部分を愛おしく感じ、同時に心配の種ともなるのでした。
 正面から修治さんの目を捉えながら、わたしは思い切って言ってみました。
「修治さん、お友達は選ばなければダメよ」
 一瞬、修治さんは虚をつかれたような顔をしました。
「友達って……ああ、あいつらのことか」
 二回目にお店に見えた時、修治さんは取り巻き連中に囲まれていました。その人たちを〝引き連れる〟といった威勢のよいものではなく、逆に毛をむしられたり、肉をついばまれている印象でした。
「あっちゃんは、キタさんみたいなことを言うなあ」
「キタさんて?」
弥次やじ喜多きたの、キタさんさ」
「もう。また混ぜっ返す。いっそ弥次さん喜多さんみたいにお伊勢参りにでも行っちまえばいいのよ、修治さんなんか」
 ――嘘です。
 修治さんに会えなくなるなんて、考えただけで切なくなります。
 大学が夏休みに入ってからというもの、殆ど毎日のようにお店にいらして下さるのですが、修治さんの顔さえ見れば、わたしはぱあっと光が差すような気持ちになる代わり、どうかして来ていただけない日があったりすると、逆にすっかり気持ちがふさいで、つい涙をこぼしたりするのです。
 最近自分でも少し頭がどうかしたのではないかと思うほど、修治さんの存在はわたしの中で大きくなっていたのでした。
 でも、そういうこととは別に、わたしは修治さんのお金の遣い方が気掛かりなのでした。
 こういうことを言うと、女はやっぱり気が小さいと男の人に笑われるかもしれませんが、ホリウッドの支払いを修治さんがどうやって工面くめんしているのか、わたしはだんだん心配になってきたのです。 
 修治さんのお父様は、修治さんが中学へ入学する頃お亡くなりになり、今は長兄の文治さんという方が御当主で、その文治さんから毎月仕送りが届くのだそうです。
 その金額がいくらなのかは存じませんが、東京には津島家の番頭格にあたるキタさんという方がいて、その人がさしずめ修治さんのお目付け役のようなのでした。
 このキタさんがついに見かねて、ああいう取り巻き連中とは縁を切るよう、懇々こんこんとお説教したらしいのです。
 いくらお家が裕福だと言っても、あんなたちの悪い食客みたいなのが何人もいれば、お金がいくらあっても足りないでしょう。
 だから、キタさんも心を鬼にして、修治さんをおいさめ申したに違いありません。
「ほら、ごらんなさい。わたしの言った通りでしょう?」
 口ではそう言いながらも、わたしはお腹にいきなり氷の塊でも押し当てられたような気分でした。
 津島家の御曹司おんぞうしをたぶらかす、何処どこの馬の骨とも知れぬカフェーの女給。
 キタさんのような立場の人の目から見れば、わたしなどはあの取り巻き連中よりもっと悪質で、唾棄だきすべき女なのかもしれません。
 ホリウッドは小さなカフェーですが、腐っても銀座です。
 これだけ頻繁にいらっしゃれば、その費用は相当な額に上ってしまいます。こんな浪費が、キタさんにいつまで知られずにすむでしょうか。
 ほかにも気になることがあります。修治さんは、大学をちゃんと卒業できるのかという問題です。
 今は夏休みだそうですが、その前だって、三日にあげずお店にきていました。帝大生と聞くと、世間の人は「末は博士か大臣か」と褒めそやしますが、実際の帝大生の生活というのは、そんなに暇なものなのでしょうか。
 修治さんのお住まいは戸塚町諏訪すわ、高田馬場の近くにある常盤館という学生下宿ですが、修治さんはそこに籠もって毎日小説を書いたり、井伏先生のところへ行ったりして、なんだかちっとも講義に出ていないようなのです。
 そんな生活を送っていても、最後は偉い学士様になれるなら、大学というのもずいぶん気楽なところだと思います。
「あっちゃん、すまないが、今日の払いはツケにしてもらえないか」
 と修治さんがいかにも言いにくそうに、ちょっと震える声でそう告げた時、わたしはついに来るべきものがきたような気がしました。
「大丈夫よ。わたしが立て替えておくから。修治さんは、お金のことなんか心配しなくていいの」
 わたしが笑ってみせると、修治さんは肩の荷が下りたような、心底ほっとした顔をしました。そして、
「なあに、あと十日もすれば田舎から為替かわせが届くんだ」
 叱られた子供が必死に弁解するように言うのでした。
「わかったわ。だから安心してまたいらして。約束よ」
 わたし自身、どうしようもなく矛盾しています。
 修治さんのお金遣いを心配しながら、一方で修治さんに会わずにはいられないのです。
「あっちゃんが嫌いなあの連中だけどね、彼らはあれで、なかなかかわいいところもあるんだよ。ふだんから何も考えちゃいないんだからね。心の貧しき者は幸いなり、さ。実は僕はさっき、あっちゃんが工藤――あのメフィストフェレスのことを言ったのかと……」
 お金の心配がなくなって気が緩んだからでしょうか、修治さんはうっかり口を滑らせたのです。しまった、という表情がひらめいたのをわたしは見逃しませんでした。
「工藤って誰?」
 すると、修治さんはいきなりわたしに顔を近づけてきました。
 一瞬接吻されるのかと思い、さすがにお店の中ではまずいと手で制しようとしたのですが、
「あっちゃん」
 修治さんは自分の額を、そっとわたしの額に押し当てたのです。
「どう、なさったの?」
 修治さんは答えず、暫くその姿勢のままでいました。
 やがて、夢から覚めたように身を離すと、
「ごめん。今晩は送っていけない。また来るよ」
 いつものお別れの合図の、わたしの髪を撫でる動作もそこそこに、修治さんは風みたいに出ていってしまったのです。
 慌てて見送りに店の外へ出た時、修治さんの姿は、もう闇の中に消えていました。 
 ――ずるい人。
 額にそっと手の甲を当てて、わたしは呟きました。ずるい人、修治さんはずるい人。
 あの人はいつもこんなふうに少しずつ、わたしの中に何かを残していくのです。
 修治さんの体温や匂い、そしてもしかしたら、心の欠片かけらのようなものを。
 わたしにできることは、待つことだけです。
 カフェーの女給の身では、巣の中にとり残された小鳥のように、ただ待つことしかできません。 
 工藤。
 さっき修治さんの口から滑り落ちた名前が、不吉な予兆のように耳に残っていました。
 その工藤という人のことを、修治さんは〝メフィストフェレス〟とも呼びました。目にくらい脅えの色を浮かべながら。
 メフィストフェレス。以前森鷗外の訳で、ギョオテの戯曲『ファウスト』を読んだことがありました。内容は難しすぎて、あまりよくわからなかったのですが、そこに出てくる悪魔――ファウスト博士と契約を結ぶ悪魔の名前は、はっきり覚えていました。
 ――メフィストフェレス。まさか修治さんは、その工藤と何かよくない契約を交わしてしまったという意味なのかしら……?
 何処どこかから長く伸びた影が、ひたひたと身体をひたしてくるようでした。その冷たい感触に、わたしは思わず身震いしました。


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