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【歿後120年】ドヴォジャーク2:畢生の名作「第七」三撰と「フス教徒」


壮年期がドヴォジャーク



 彼アントニーン・レオポルト・ドヴォジャークという人の「劃期」たるや概ね十年単位にて巡るように思えるのであるが、一番、二番の交響曲をものしたる1865年よりの凡そ十年を、彼アントンはヴァグネリアンとして送りつつ、なれど作曲家としては今一つ成功を勝ち得るには到らず、謂わば「雌伏の時」たるとて忍従を強いられる。それでも斯く十年にて、筆者は駄作と看做す三番、加えて初期の彼にてや漸々「ヴァーグナーが影響」より脱しつつあるやの四番たる二つの交響曲にてハプスブルク・オーストリア政府が奨学金受給審査なる「試金石」を踏み、年間400グルデンになる奨学金を勝ち獲る栄誉に浴する。これは、彼アントンがそれまでに手にしていた年収の実に317%という巨額なものであり、その審査へと最初に通過したのが、まさしく十年後たる75年である。これが呼水となったのであろうか──同年よりレッスンなどを通じ関係を持つ裕福な商人ヤン・ネフ家族のために作曲を開始する「モラヴィア二重唱曲集」が、やがて彼アントンの運命をより幸いなる高みへと引き上げるは、おそらくのところ忍耐と努力の賜物でありかつ、彼が様々な意味にて恵まれたる証左やもしれぬ。
 斯く高みへとアントンを引き上げたる人物こそ、アンチ・ヴァグネリアンの象徴と崇め奉られしヨハネス・ブラームスであったのは、最早「必然」であろうか。先述「奨学金」を巡っては、75年の最初の認定より彼が欧州各地にて人気を博すまでの5年間受給審査を通過・給付されるのであるが、77年審査時に提出をした「モラヴィア二重唱曲集」が審査員の一人たるヨハネスに認められる。ヨハネスは交際のあったベルリンの出版社ジムロック社へ早速周旋をするが、その折の書簡にて当該作の如何に優れたるかを二度三度と書き連ねている。その後78年にアントンは恩人たるヨハネスを訪れ、両者は以来昵懇なる関係を結ぶ。猶付言するなれば、同じくアントンなるファースト・ネームを名乗るブルックナーとヨハネス・ブラームスの関係というのも、実に興味深い側面を有しており、斯く両者が晩年に到ってヨハネスは、手に余る量たる作品依頼を内密にブルックナーへと振り当て、彼を経済的にアシストしている。この両者は懇意に交わりはせず、しかもヨハネスはブルックナーの交響曲(おそらくは三番や五番)をして「交響的大蛇」と貶し、対するブルックナーにてもヨハネスをば「自らの仕事を弁えてはいるが思想の欠片もない」と膠鰾もなく切り捨てているが、例えばヨハネスはブルックナーの交響曲第七番については一定程度以上の評価を下しており、スコアを入手するに関係者を急かすなどの挿話も残されている。聊か人付き合いに倦むヨハネスではあれ、認むるべきは認むる公正なる人柄が持ち主たるを知るエピソードであろう。とまれ閑話休題──。
 そう、アントンはアントンではあれ、主役たるアントニーンが「十年劃期」である。次なるサイクルにて彼アントンは、歌曲集「ジプシーの歌」あるいは最初の成功的交響曲「第六番」(旧・第一番)にて着実に地歩を固め、またドイツ語圏のみならずイングランドにても熱狂的なる喝采と名声を得る。同地における彼の人気は一方ならぬものであり、84年三月の歓呼がデビューに続き、六月にはロンドン・フィルハーモニック協会による協会名誉会員への推挙と新作交響曲の委嘱へと与る。その新作交響曲こそ、今回取り上げし「交響曲第七番ニ短調作品70」である。


序曲「フス教徒」 作品67 B. 132

  Pravda vítězí, ── 15世紀初頭より今日へと至るまで、この名言がチェスキーを陰日向に支えてきたファクトを巡っては、最早誰あろう自明の「真実」である。そう、つまるところ「真実は勝つ」
 マルティン・ルターより百有余年は遡ろう宗教改革が先人たる今日チェコが聖人ヤン・フスが託宣を由来とする「 Pravda vítězí, ──真実は勝つ」
一つには1413年に、ラプシュタインのヤンへと宛てたる書簡に認められにし「Pravda vítězí nad vším ( Super omnia vincit veritas ) =何より真実こそ勝利を得る」が起源でありまた、今一つは1415年、コンスタンツにて囚われの身たるフスが、嘗て総長を務めし名門プラハ大学へ宛てたる「Stůjte v poznané pravdě, která vítězí nade vším a sílu má až na věky=自明なる真実に依て勝利を得ればこその永遠なり」よりも由来するとされるかの言葉たるや、ポストWW I に成立を見る「チェコ・スロヴァキア共和国」にてマサリクにより「至言」と定められ、かつうは、ほぼ無血革命たる「ヴィロード革命」に勝利を収めしヴァーツラフ・ハヴェルへと霊感を与えたる「金言」である。
 ハプスブルク・オーストリアに支配されたる往時にあって、勃興しつつある「民族自決」に取り分け感化されたるべドゥジフ・スメタナたるや、チェコ語に決して明るくなかったがゆえであろうか、斯く至言があればこそ「我が祖国」を実質的に総括するアタッカにて連結されたる二つの交響詩「ターボル」「ブラニーク」をものしたと考えて如くはない。一方で根っからのチェスキーたるアントンも、斯くなる「時代が新星」たるとて、スメタナと同様、所謂「ヤン・フス」をテーマとする三部作を企図していたのである。そう、七番が交響曲へと先行する「民族的」作品を数多生み出す70年代後半から80年代初頭にかけてであるが、スメタナも引用をしたるフス派がコラール「汝ら神なる戦士ら」に加え、同じくフス派コラール「聖ヴァーツラフ讃歌」を用いつ描かれしそれは、結局のところ「脱・民族色」を滲ませる当「フス教徒」のみが実現せらるる唯一のそれを為すが、七番第一楽章第一主題にて、反ハプスブルク・デモへとスロヴァキアやハンガリーより参集せる群衆を表現することにより、当序曲に与えられし性格=キャラクターになる「意味付け」を、あるいは補完しようと考えていたのやもしれぬ。なればこそ、第一主題群へと「フス教徒(聖ヴァーツラフ讃歌)」がパッセージを転用したのであろうよ⋯⋯などと想像の翼は猶一層にも拡がり羽撃く。
 コンスタンツ公会議の結果、ヤン・フスは1415年に焚刑へと処せられる(彼の態度如何によっては寛刑=不問をさえ考えていた、公会議の影の主役たるジーギスムント──後の神聖ローマ皇帝は、まさに「真実」が美名の許に節を曲げぬフスを焚刑に処すよりなかった)のだが、直後、彼フスを支持するボヘミアの貴族・衆庶らは今日「フス戦争」と呼ばれる決起を図り、結果として教皇権、ローマ王権をさえ跳ね除ける「フス教徒」になる独立状態を数十年維持する。この時代をして今日チェスキーは「自主独立」の嚆矢と見定め、ゆえなればこその「Pravda vítězí, ──真実は勝つ」を国是とするのである。

第二回:畢生傑作「第七」と「フス教徒」(不老如若──不老人間ラヂオ)


交響曲第七番ニ短調 作品70 B. 141

 斯く彼アントンが「十年」タームになる「劃期」であるが、この畢生たる一大傑作と讃えて強ち謬りとはせぬ「第七番」たるや、最初の二つの交響曲より二十年を経る85年に完成を看るも、やはりこれも「必然」たるやと捉えて如くはなかろう。この交響曲を巡っては、恩人たるブラームスが「三番」との類似性なども時に指摘されるは、ヨハネスあるいはアントンのファンであれば自明ではあれ、実のところひっそりとして然りげなくもヴァーグナーは「トリスタンとイゾルデ」より「憧憬の動機」などが引用されている事実について語る人々は、聊か不可思議ながら決して多くは存在しない。これは彼アントンの代表作たる交響曲第九番ホ短調作品95「新世界より」においても同様であり、あるいはアントンへ何くれとなく世話を焼くこととなるエドゥアルト・ハンスリック(謂うまでもないヴァーグナーが宿敵にしてブラームス陣営の先陣を切りたる評論家)でさえ見抜けなかった事実であろう。斯く引用は第一楽章及び第二楽章へと僅かに花を添える程度のそれに過ぎぬのではあれど、興味を抱く向きなどは是非スコアを繙きつつ耳を傾け探り当てるも興趣唆りて面白かろう。
 とまれこの七番ニ短調は、これまでの彼アントンには類例を見ぬやの貌を持つ。それはある種の「レイジ──激情」と緊密なる構築性とのマリアージュにより齎される。殊に第一楽章は第一主題(寧ろ第一主題群)に顕著であり、またフィナーレにも斯様なる相貌が浮き彫りとされている。おそらくのところは、遡ること数年に及ぶ、彼アントンを懊悩せる悲劇(相次ぐ子らの死や母の死、筆を染める半年程前に鬼籍へと入る、やはり恩人たるスメタナとの永訣)、かつうはチェスキーたる民族性より煥発されたる作品群(スラヴ舞曲集や弦楽四重奏曲第十番、チェコ組曲など)をものして後の、謂わば心理的投射でありかつ整理の結果やもしれぬ。取り分け後者に関すれば、ドイツ各地、またイングランドにおける「受容=需要」が過程にて得たる内面的成果などとも相俟っては、彼アントン自ら「本格的作品」と位置付け顧みたる当作へと結実したる証左が果実と看做すべきであろう。ゆえにそれら作品群の一つたる序曲「フス教徒」の引用が、第一楽章第一主題の構成要素として組み込まれ、音楽的劇性をより昂らせるのである。
 それと等価なる意味にての第二楽章が構成力も、美しき調べとともに特筆大書すべきであろう。三部形式になる緩徐楽章たる二楽章は、単なる三部形式に留まらぬ緊密性が魅力を層倍させるが、中間部はヴァイオリンの掛け合いに魅了されるべき「妙」が凝集をされる。確かにこの交響曲、1st、2nd両ヴァイオリンが掛け合いの実にも見事な書式がチャーム・ポイントであり、そんな愉悦へと浸るに「対向配置」になる演奏にて聴くべしとは筆者が持論なれば、凡て(併録「フス教徒」含め)典型なるそれにてお送りしたい。やはり三部形式になるスケルツォ(実際はチェコ民族舞曲たるフリアント)になる第三楽章も個性的であり構成力に富む。何より当作を「畢生のそれ」へと決定づけたるが、第一楽章と同様、緊迫感溢れしソナタ形式になるフィナーレであろう。総体へと影翳すやに覆う「暗さ」は、謂わば第一楽章のレイジとフィナーレが悲劇性にて規定されたるイマーゴながら、その終結を「変終止──プラガル終止(所謂「アーメン終止」とも)」に顕現するは、フスを象徴する第一楽章第一主題が「信仰的」解決への当然たる帰結であろう。

(続く)

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