源賴國──不老人間

不老如若──斯くありたいと願いつ、恬淡として執着をすらせぬスケベ人間。古典的自由主義者にしてバーク保守主義を信奉せし者。ビールとチェコとオランダとぬこが好き! 断固たるぬこ派!(笑 #クラシック音楽 #古楽 #ビール #日本酒 #森七菜 #恋人募集中(笑

源賴國──不老人間

不老如若──斯くありたいと願いつ、恬淡として執着をすらせぬスケベ人間。古典的自由主義者にしてバーク保守主義を信奉せし者。ビールとチェコとオランダとぬこが好き! 断固たるぬこ派!(笑 #クラシック音楽 #古楽 #ビール #日本酒 #森七菜 #恋人募集中(笑

マガジン

  • 女と僕と──Feminae mea vitae「随想」

    我が女性遍歴、かつうは第三者視感における「女と男」を巡る音楽作品、文芸作品にまつわるあれこれを凝集・エッセンスとて披瀝しつつ、人なる存在の「様々を巡り」、一般論をも含め照射をしたい。

  • Communitas Musicum Amorus

    音楽を通じて知遇を得た方々の記事をコレクションしてみました。どうぞお楽しみあれ。

  • 林檎的音楽生活

    YouTubeチャンネル「不老如若──不老人間ラヂオ」にて、Apple Music音源になる動画のための解説を中心に、音楽関連の自作記事を紹介します。 ※不老如若──斯くありたいと願いつ、恬淡として執着をすらせぬスケベ人間。古典的自由主義者にしてバーク保守主義を信奉せし者。ビールとチェコとオランダとぬこが好き! 断固たるぬこ派!(笑 #クラシック音楽 #古楽 #ビール #日本酒 #森七菜 #恋人募集中(笑

  • 酒と肴──美食あれこれ

    酒肴や甘味、調味料理など食を巡る自らの随想、あるいは酒と肴、お菓子などにまつわる素敵な皆様方の記事をコレクションします。乞うご期待!

最近の記事

闘う偉大な指揮者と闘う宰相ピアニストの交響曲

フルトヴェングラーと交響曲──指揮者ゆえの苦悩  偉大なる指揮者である彼が、しかしながら自らを「それ以前に作曲家である   」と自認していたのは確かであろう。とはいえ彼が、決して積極的には取り上げず一定の距離を隔てし先達・マーラーとは比ぶるまでもなく、作曲家たるやと自覚するそが身、つまり「誇るべき在り方」を巡り、今日に到っても猶「顧みられざるを得ぬ」有り様を、彼岸にあって果たして如何に眺め思い遣るであろうか⋯⋯現代を生きる我々でさえ、評価が在り処をば那辺に求むるべきやと

    • 【歿後120年】ドヴォジャーク3:颯爽たる青春と葛藤なる円熟の協奏曲

      はじめに  その時代──つまり「ロマン派」期における「音楽が華」は、ヴィルトゥオーゾ的「表現手法」へと次第に収斂されていく。これは「送り手側」=則ち作曲家・演奏家側にせよ、また「受け手側」=聴衆にせよ変わらず、結果たるとて超絶技巧あるいは難易度の高いパッセージなり構造なりを披瀝するに打ってつけたるピアノ、あるいは弦楽器であればヴァイオリンがそれへと与るに能う風潮・土壌を培い養う「一面」にて歓迎をされ、就中独奏曲やソナタ、協奏曲分野において上記二楽器が「王者」然として君臨す

      • 楽器の「在り方」と「その妙」1

         弦楽器(特に擦弦楽器)の構造的音像的指向を顧慮するに、奏者からすれば右手側=客席にては左手側にそのエッセンスが集中するは自明である。管弦楽における所謂ストコフスキー・シフトは、1920年代中盤を前後に確立を看る(しかしその嚆矢がストコフスキーである確証は未だ発見されてはいない)が、まさに「弦楽器群」を王者とする管弦楽手法ゆえ、その嚆矢が誰であれ「自然と」生ましめたる編成であるは言うを俟たない。  いずれ往時のブロードキャスティング及びディスク・メディアが要請の結果ではあり、

        • 伊福部昭の戦後──災厄と破壊、祈りそしてレクイエム

          はじめに  時は「東日本大震災」など誰であれ予想だにし得なかったであろう2000年代中盤。東京大学教授(当時)・伊福部達は日本放送協会(NHK)の依頼に聊か悩まされていた。しかし既に肚は決めてある。謂わば「隠し玉」とでも呼ぶべきであろう。  斯く「隠し玉」より三十篇ほどを編み出し、NHKとの会議を経て五つまで絞り込み、更にはお年寄りや幼児・児童らをある種の「治験対象」として得た調査結果に基づき、遂に「三十分の一」が決定を看るに到る。そう──。 「NHK」による「緊急地震

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          「禿山」三態と「船乗り大冒険」

           実のところ、極めて微妙なるポジションになるアニヴァーサリー・コンポーザーが存在する。生誕185年──極めて微妙である。しかしながら彼の存在は、取り分けシャスタコーヴィチへの多大なる影響を顧みるなら、決して無碍にはし得ないし、同じくロシア「五人組」同僚にして、こちらは生誕180年を迎えるもう一方の努力もあり、今日音楽シーンには欠かせぬ存在である。そう、誰あろうマデースト・ペトゥローヴィチ・ムーサルグスキーであり、もう一方はニカラーイ・アンドゥリェーヴィチ・リームスキー=コール

          「禿山」三態と「船乗り大冒険」

          79年目の「終戦の日」に

           人という存在は常に顧慮自省と点検を求められる。それらを欠く未来というのはあり得ない。斯くなる意味にて「歴史」なる学問は顧慮自省の精神に成り立つ。加うるに、歴史を省みるに当たり客観的・科学的かつ冷静な姿勢をも求められよう。そう規定するなら、特定の思想信条に歪められたる史観というのは排撃せるを枢要とすべきではあるまいか。例えば自虐史観や進歩史観。己が都合の良いように解釈するがゆえに「牽強付会」へと陥りやすき最たるそれである。彼ら彼女らは大抵、瞽滅法に戦前を悪と非難論難する。しか

          79年目の「終戦の日」に

          酒肴を巡り1──吾たるや斯く吾なるべし

          「みなもすなるnoteといふものをあもしてみむとてすなるなり」とばかりに始めるに当たっては、先ずApple Musicを巡り書き認めようというのは当初より究めてはいたけれど、何とはなしに悪戯心から「酒と肴の女と僕と」なる副題を付したのは、折節「音楽」とは異なる「好き好き」をも顧みんとて「遊び心」からとばかりに──とまれ酒も肴も女も大好物ではある(笑)。  尤も本格的に綴り始める春先辺りよりこの方、胃の腑が聊かご機嫌斜めであるのに加え、地球の自転がせめて半分ほどゆるりとしていた

          酒肴を巡り1──吾たるや斯く吾なるべし

          日曜作曲家&実業家「アイヴズ」1:慣用版と校訂版「二つの交響曲第二番」

           例えばドヴォジャークなる人などは、実に「作曲」を巡っては「誰かに師事」し徹底的にそれを学ぶ課程を「一つとして」踏んではいない。彼が修了したる音楽学校というのは、体系的なる(即興演奏をも求められる)課程を叩き込む「オルガニスト」養成学校であり、つまりオルガニストとして「和声法や対位法」を収めたに過ぎず、作曲に関しては「基本的教育」を受けてはいない。 二人のアントンと有為転変──そしてイニシャル「C」  斯くなる意味にて、所謂「学歴」を推して非常に「相似的」なるかのもう一人

          日曜作曲家&実業家「アイヴズ」1:慣用版と校訂版「二つの交響曲第二番」

          生誕百周年「團伊玖磨」1

          團伊玖磨生誕百年記念「交響曲第三番&第四番」  團伊玖磨と言えば、芥川也寸志そして黛敏郎らと企画・実行せしむる「三人の会」が、先ずは筆者の脳裏が衷より「抽斗はこちらよ」とばかりに呼び掛けるに、ついソイツを思い浮かべる。 「三人の会」というのは、実にも面白きそれであろうよ。つまるところ芥川也寸志(親ソ・左傾)、團伊玖磨、黛敏郎(今日的には中道。往時は右翼視)らが夫々の思想信条を問わず、ただ純粋に「音楽」という共通項のみにて「切磋琢磨すべく」意見を交わし、それなる結果を夫々「楽

          生誕百周年「團伊玖磨」1

          【歿後120年】ドヴォジャーク2:畢生の名作「第七」三撰と「フス教徒」

           彼アントニーン・レオポルト・ドヴォジャークという人の「劃期」たるや概ね十年単位にて巡るように思えるのであるが、一番、二番の交響曲をものしたる1865年よりの凡そ十年を、彼アントンはヴァグネリアンとして送りつつ、なれど作曲家としては今一つ成功を勝ち得るには到らず、謂わば「雌伏の時」たるとて忍従を強いられる。それでも斯く十年にて、筆者は駄作と看做す三番、加えて初期の彼にてや漸々「ヴァーグナーが影響」より脱しつつあるやの四番たる二つの交響曲にてハプスブルク・オーストリア政府が奨学

          【歿後120年】ドヴォジャーク2:畢生の名作「第七」三撰と「フス教徒」

          【歿後120年】ドヴォジャーク1「青春の協奏楽と交響楽」【全4回】

          「青春の街ズロニツェ」  プラハという街は実に小粋である。例えばカレル橋の傍であれ、旧市庁舎広場(旧市街広場)の端であれ、ロマとは異なる「真のボヘミアン──プラハっ子」らが、時に自らの技量を試すべく、あるいは戯れに宵の呑み代が費えの足しとすべく、得物つまりは楽器なり声なりを披瀝し、相応と看る人らが「良い出来」と感心をすれば「投げ銭」にて喝采を浴びせる、そんな風情を湛える街である。それは小路や辻に止まる話ではなく、本邦に擬えるなら「大衆居酒屋」でさえ変わらぬ。酒場では楽の音や

          【歿後120年】ドヴォジャーク1「青春の協奏楽と交響楽」【全4回】

          【悲劇か】戦争と音楽1──序章【娯楽か】

          はじめに 「戦争」なる事象を巡り、さて我々は如何に考察すべきであろうや?──仮にそう問われたと規定した上で、斯く事象を如何に客観視し得るかというのは枢要でありかつ、決して生半かには咀嚼し得ぬ「人文学的」それですらある。  往古におけるそれが「エスニック・クレンジング」をさえ出来し得る歴史的経過(立体的・垂直的史観)をも招来せしむ事象たるやを諒解事項として共有しておきたい。しかしながら時に「娯楽」なる側面をさえ有していたのも覆すに能わぬ真実である。  例えば本邦においては、室

          【悲劇か】戦争と音楽1──序章【娯楽か】

          悩み尽きせぬ24アニヴァーサリー如何に?

           時間的制約、あるいは体力的限界またはその他「不如意」な事情を顧みずに物事を進めるというのは、 これは当然ではあれ土台無理筋であろう。斯く慮るなら、アニヴァーサリー企画にせよ篩にかけるよりあるまい。  一年遅れのラフマニノフ特集はとまれ完遂するとして、では24アニヴァーサリーを如何にすべきか──ホルストは既に終えたので措くにせよ、さてどのような基準を以て「掬うか落とすか」である。ドヴォジャーク及びスメタナは目処も立つがゆえ近々お送り出来そうではあるが、まず一次史料たる総譜が揃

          悩み尽きせぬ24アニヴァーサリー如何に?

          「去んぬる年が悔いぞ残さじ」──'24s展望

           気づけばいつかしらか当noteも、ふた月近くも抛擲をして挙句、そうよ、ある意味にては一昨年よりの宿願たる「特集配信」へと手を着けるのでさえ能わずなりし23年も過ぎてしまい、年明けより既に二週間になんなんとする時をさえも費やす始末。  まさしく「やれやれ」である。  結局のところ、ダブル・アニヴァーサリーには間に合わなかったラフマニノフ特集ではあるが、彼にとっては極めて象徴的なる意味を与えられし三月をフィナーレと看做し、それまでに四度ほどにて漸く制作・配信の目処を立てた次

          「去んぬる年が悔いぞ残さじ」──'24s展望

           ご 挨 拶 ── Apple Musicを中心に

           日頃「忙しない」などと半ば口癖が如くに愚痴を垂れるも、 時には無聊を託つ身の慰めにて、およそ三月余りの長期にわたりApple Musicへせっせと貢いでは、折節好むところの音楽を愉しみつ今へと至る。僕の場合、選びしプランは「Apple One」ゆえ一月毎に¥1,200 ─ を費えとして要する。それでも所謂「円盤」に換算するなら、格安中古品でも精々4〜5枚購えるか否か。 それが95日で1,600タイトルを超えているのだから、最早「元を取る」どころの話ではなかろう。 正に「Ap

           ご 挨 拶 ── Apple Musicを中心に