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同性婚を考える土日

土日の講演会、試写会をうけての雑感

土曜日は同性婚裁判の当事者の講演
日曜日はアメリカの同性婚裁判のドキュメンタリー映画の試写会

期せずして同性婚な土日だった。

まず、それらが開催された場所が、男女平等推進センターだったってことだ。LGBTs問題は、実は女性の地位向上ためのジェンダー平等問題の下にあって、そこから、性の自由な選択という考えにつながり、LGBTsがいる。

なので、当然参加者にはフェニニストっぽい人が多い。第一次なのか、第二次なのかわからないけど、80代もいらしゃって、ちょっとびっくりした。

正直、50代当事者の自分ですらちょっと居場所がない感じがした。

同性婚は、LGの人の問題のように思えるけど、実は既婚者Tもいっぱいいるので、Tだって希望してる人はいる。知人にも何人もいる。

とはいえ、自分は同棲、結婚、結婚とつづけて、バツ2.5なので、いまとなっては結婚にロマンティックな思いはなく、思い出でしかない。もうこの歳になって恋をすることもないだろうって気持ちもある(自分がそういう気分になれてない)ので、当事者ではなく、支援者にしか成れないと思う。

ただ、社会学大好きっ子としては、そもそも結婚ってなんだったんだろうとか、家族ってそもそもなにとか、そういう根本論はとてもきになる。

結婚とは出産のための装置だって考え方もあるけど、出産できない男女だって結婚はできる。なにも産めよ育てよだけが結婚の意味じゃない。

同性婚の子供は不幸になるって言う考え方もおかしい。自分がステップファミリーだったから実感もっていえるけど、子供は産みの親より、育ての親を選択する。産むだけならだれでもできる。育てるのはホント大変。

同性婚でよくでてくる、病院問題(同棲パートナーだと法的な意味がないので、病院で立ち会えないなど)は、切実な事だとおもうので、そういう部分を保証するために結婚制度を変えるっていう必要はとてもあると思う。

一時期、結婚ってそういう制度的なものを保障する契約にすぎないとおもってて、ずっと事実婚だったけど、やっぱり結婚にはロマンティックなものはあるよね。だって、歳取ってもずっとラブラブなカップルはいるんだから。

映画「ジェンダー・マリアージュ」では、同性婚を認める認めないにあったって、「アメリカとは」という視点がいっぱいでてきた。アメリカは同性婚を認めるべきなのか、アメリカというアイデンティティに照らし合わせて争点を議論するのはとても刺激的なシーンだった。

じゃ、翻って日本の同性婚裁判は「日本とは」という視点で裁判がおこなわれるのだろうか、古典的な日本、明治維新によって作られた日本、太平洋戦争でつくられた日本、アイデンティティクライシスを2回も経てるこの国は、「日本とは」という視座が明確じゃないようなきがする。

結局、そこの腰がすわらないと、女性問題、夫婦別姓、同性婚、トランスジェンダーの特措法改正、LGBTs差別禁止、全部決まらないのだと思う。

だから、社会学的に、夫婦論や、家族論を、歴史を紐解き、日本ってそもそもどうだったの、これからの世界で、普遍的な価値観はどうなっていくべきなのって考えることが必要なんだろうなって思った。

当事者として参加する前に、批評空間を作るものとして、支援したい。

それがいまの気分。

家族論については、次ぎの投稿でね!

追記:そだ、基本フィクションでは泣くほうだけど、ドキュメンタリーでは泣かないって決めてた。でも今回の映画は、最後結構目頭があつくなった。事前になんか飲みのモノ飲んでたら確実に泣いてたな。

そういう意味で、同性婚うんぬん以前に、映画としてとても優れてると思った。月イチ映画館なわたしが言うんだからホントだよ

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