見出し画像

ケアと中絶

キャロル・ギリガンの「もうひとつの声で」と言う本がある。フェミニズムのなかでは賛否両論で話題になった本だ。

心理学者のギリガンは、女性の発達が男性より一般的に遅れるとされるのは、発達の進度を測るメジャーが男性中心になってるからであって、女性は女性として男性とはちがった方向で遅れることなく発達しているといった。

その女性らしい発達の方向というのが、ケアとコミュニケーションであり、女性は、他者をケアすることに長けているということだった。

しかし、その事が、ケア労働という子育てや介護といった無償労働を女性に押しつけている原因じゃないかという一部フェミニストからの反論もあった。

いまでは、ケアは人間の倫理であり、しかし女性が得意という解釈がされる。

この本を中心に、ケアの倫理を扱ってる本をつまみ食い読みしてみた。そして女性としてケアの実践をできるようになろうと思ってはじめたのがこども食堂だった。

先輩女性たちのように、ケア慣れしてない自分は、しどろもどろしながらもケアを意識してこどもたちと接した。その経験は自分のなかの女性性を肯定すると共に、男性でもできなきゃいけないことだなとの実感もした。

新年会からかえってきて、何気なくつけたテレビで、「透明なゆりかご」という連続ドラマの一挙放送をやっていた。そしてつけたシーンがいきなり中絶のシーンだった。

女性は結婚する、しない、こどもをつくる、つくらないにかかわらず、こどもを作る人生を選ぶのか選ばないのかを机上に上げるのだとおもう。いままで、自分のこどもをもつ友達以外、ほとんどこどもを作らない選択肢を選んできた友達がおおかった自分は、むしろ女性の友達から、子育てのできる人として評価されていて、自分が産んだわけでもないのに、むしろ子育てのケア性が高いような言い方をされてきた。

中絶をした子は友達のパートナー。不妊治療のあと、高齢出産で妊娠して、羊水検査をうけてダウン症だとわかって中絶した。自営業の自分には、障害のあるこどもを抱えるのは無理だというコトバがあたまから離れない。夫婦で話し合い、最終的に妻が判断したのなら外野がつべこべいう理由はない。

こどもを作らない、結婚をしないと選択したところで、夜道で襲われ、不同意性行為をされてしまったら、緊急避妊薬を飲まなければ妊娠してしまうのが女性という存在だ。毎月の生理に苦しみ、痛さと不快感を経験しながら、こどもを産める存在であることを意識すること。これが女性と言う存在ならば、わたしは女性ではない。女性の良き隣人であるように生きる事しか出来ない不完全な存在でおわるのだろう。

ここで問われるのは、わたしが何者なのかではない。わたしは何者のためにケアができるのか、ただその事だけを、自分の倫理として生きることなんだろうとおもう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?