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「REAL VOICE 児童虐待を経験した若者達のドキュメンタリー」という映画を観てきた。

 機会があり、「REAR VOICE 児童虐待を経験した若者達のドキュメンタリー」というドキュメンタリー映画を鑑賞してきた。今回はこの作品の感想レポートを綴っていく。拙い文章だが、大目に見て欲しい。

 児童虐待経験者の人々による経験と声をまとめた今作だが、見終わった後、真っ先に感じたことが、悲しさと無力感だ。

 悲しさというのは、心理的暴力と物理的暴力が実際に起こっているという現実だ。経験者の声を通し、それが生々しく伝わってきた。
 特に、今まで虐げられてきた虐待経験者の、心の底からの言葉である「死んでください」はしばらく頭に残った。殺意と悲しさが混じった声にしばらくメインの内容が頭に入って来なかった。

 無力感というのは、私が救いたいと思っても救えないということだ。「救いたい」なんて言葉は、上から目線な愚者の言葉だが、それでも救いたいと思ってしまう。
 しかし、救える訳が無いのだ。虐待とは無縁の場所で生活してきた私には、お気楽な綺麗ごとしか言えない。実際に経験した訳でもないのに、親身に寄り添って話を聞くなんてことが出来るだろうか。否、不可能である。そう簡単に救える程、浅い傷な訳が無い。普段しょうもないことで、精神を病んでいる人間が、命懸けで生きてきた人間を救うなんてことは出来ない。この無力感に殺されそうになる。

 彼ら、彼女らを救えるのは同じ経験をしてきた者同士でなければ救うことは出来ないと私は思う。平和ボケしている者が救おうなどと、決して思ってはいけない。

 話は変えるが、過去にファミレスで子供の頭を思い切り殴っている父親を見たことがある。母親が止めるが、父親は「こいつが悪い」の一点張り。子供は泣き叫んでいた。
 食事に来ていた私は、頭が真っ白になった。段々と頭に血が上ってきて、感情のまま席を立ちあがり、その家族のテーブルに行くが、家族は自分の方を見向きもせず言い争っている。私はその父親を殴ろうとした。思い切り殴るつもりだったが、恐怖で腕が上がらなかった。今思えば、恐怖が勝って本当に良かったと思う。あのまま殴っていたら私も同類だ。
 そのまま店外に出て、泣いた。無力感で泣き崩れた。あの子はどうなるのかと、心配でたまらなかった。初めて虐待を目の前で見た経験だった。

 暴力というのは便利な道具であり、完全悪では無い。相手より自分が優位に立つ方法として最も容易な行為である。しかし根本的解決にならない他、暴力に頼り続けると、いずれ劣勢に立つ。これを理解している親は飴とムチを上手く与え続ける。これが私にとっての理想の親であると考えている。これを理解していない親こそ、虐待と呼ばれる行為に陥るのだと思う。
 虐待は無くならない。だが減らすことは出来る。今の自分に出来る事をやり続けるしかない。そう思わせてくれる作品だった。


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