新企画800――校閲についてのメモ / 「東京物忘れ大学展」レビュー(随時更新0609)
2023. 5. 17 くにたろう
・「校閲」という言葉がどういう作業を示しているのか、今ひとつ腑に落ちかねています。書き手とともに校閲を模索していけるように、このメモを公開することにしました。今後も順次書き加えていく予定です。このメモに関連して言いたいことが出てきたらその都度教えてください。
・「校閲」という言葉から浮かび上がるなんとなくのイメージ
① 提出された文章を、正しい言葉遣いに訂正する。
② 書き手に次ぐ読者として、真剣に文章に向き合う。
③ その際、中立的な立場を守る。
・校閲は権威化しやすいのではないか?
→テストの答案につけられた赤ペンの筆跡がどれほど権威を持っていたか、学校教育を経験した者なら実感しているはず。特に内容面にも踏み込んだ校閲を行う場合、書き手が萎縮してしまう可能性は高まる。
→校閲と権威は表裏一体なのかもしれない。校閲がO Kを出すことで、初めて文章は公の場に出ることができるから。文章が社会と接続する際の「関門」のような役割を果たすのが校閲、とも言えそう。
→校閲が機能していないネットの言論空間は、言ってみれば公私混同の極みなのではないか。個室と街の広場が、境界もなく接続している世界。隣人の寝起き姿が直に見えてしまう世界。
→校閲と検閲の違いは何か?意外とその境界は曖昧なのではないか?これは書き手の萎縮の話ともつながる。特に内容面に踏み込む際の校閲側の方針みたいなものがあった方がいいのか?
→校閲と編集の違いもよくわからない。ネタ探しから同行するのが編集で、文章化されている段階から参加するのが校閲という認識で当面は作業する。
2023.5.18 みた
・「校閲」に権威性があるというのはその通りだろうと思いますが、我々の場合特殊なのは書き手が強めの(?)校閲を前提として了承しているということでしょうね。
・実際意識としては「校閲される」というより、「どんなものを出しても一旦は校閲してもらえる(もらえてしまう)」の方が強かった、特に私の場合は「いかに校閲されるか」を考えて書いたから(もちろんその想像から逸れていくことを前提にですが)、全ては汲み取られないように閉じたところを意図的につくっているので、強い校閲に対して対等になれるよう、強めのボールを投げた(実際投げられているかは不明)感じです。
・それゆえ、今回の件に関してはイメージとして挙げられている「中立的な立場を守る」ことは、必要条件と考えるには難しいように思います。そのように考えてもいいくらいな距離なんじゃないかな。「なんとなくのイメージ」として言われたことですから「なんとなく」なのでしょうが、一応付言させていただきました。
・校閲は即ち検閲であるということはあり得そうですが、今回の場合はみなみしまさんがどこまで想定されているのかわかりませんが、あまりにも校閲を受け入れがたい場合、例えばそれこそ検閲のように文章の掲載自体を拒絶するような校閲が入った場合は他の校閲候補と新しく組み直したりという選択肢もないことはないと思うから、この場合の検閲がもつ範疇は「検閲」ほどにはないのではないかとかも思いました。
2023. 5. 19 くにたろう
・閉じたところって、意図的に作る必要があるのでしょうか。解説でも「校閲という外部」という表現があったように、みたさんは校閲と書き手の対立関係をすごく意識していますが、僕には両者が対抗関係にあるとは思えません。むしろ校閲とは、真の外部である顔の見えない読者と書き手をつなぐ門のような立場にあるのではないでしょうか(多分それで「中立的」という言葉を使ったんだと思います)。みなみしまさんはその門が形骸化していることに危機感を抱いてこの企画を始めたのでしょう。
・なんでみたさんは、開かれた言葉を正面から投げ込んで来ないのかがやっぱり分かりません。全てを汲み取られないように閉じたところを作ることで、本当に校閲と対等だと言えますか?校閲は、半分作者・半分読者みたいなものだと思います。ただ、閉じた言葉が多すぎると、質問を乱発する読者になり下がります笑 文中において、書き手は読者よりも圧倒的に有利です。読者はひとまず、書き手を信用するしかないのです。そこにあえて閉じた言葉を投げかけるのは卑怯じゃないでしょうか。本当に書き手と校閲が対等なら、校閲側の指摘に対して書き手がさらに指摘することだってできるのではありませんか?
・とは言え、前回のメモを見返すと僕も校閲の権威についてだいぶ字数を割いていますね。顔の見えない読者から隔てられた密室で、書き手と校閲が衝突するというのも頷けます(例えば、まさに今僕たちが言葉を閉じるかどうかで議論しているように笑)。大事なのは壁の外を絶えず念頭に置くことであり、書き手・校閲は共に(おそらくは校閲側が率先して)壁に穴を穿つ必要がある。それはつまり、言葉を開いていくということに他ならないんじゃないかと思います。
・逆に僕が興味を持つのは、どうしても残ってしまう、意図せず閉じてしまった言葉です。校閲と協働して言葉を開く作業を繰り返しているのに、どうしてもゴロゴロした部分が残ってしまう。でもその部分を除去すると文章がうまく繋がらない。こういう意図せず閉じてしまった言葉は、故意に出せるものではないし、むしろ言葉を開いていく作業の延長に出現するんじゃないでしょうか。そしてそれが、逆に読者を惹きつける核になるのではないかと愚考します。
2023.5.20 みた
・「閉じた」という言葉に語弊があったかもしれません。表現には完全に閉じることができないという制約があります、それはたとえば私的言語の不可能性や、沈黙すらも応答になり得てしまう、あるいは私の存在自体が応答になり得てしまうところがあるからです。つまり、私がいう「閉じた」とは言語の効果をメタ的に使用するために、その使用に必要な分に限って、あえてテクストが字義通りに解釈されることを回避しようとする程度のことであって、つまり「全ては汲み取られないように」とはこのような意味であって、批評において隠し事をしているという意味ではありません。
・ではなぜ「閉じる(もちろん完全に閉じることはできず、閉じる素振りでしかないことを承知の上で行う)」のかと言えば、くにたろうさんの言う通り、真の外部である読者、壁の外を念頭に置くからです。くにたろうさんは閉じた言葉を投げかけるのは卑怯ではないかとおっしゃられましたが、私としては卑怯なことをしたつもりはないです。それは、言語の直接的な意味を閉ざす分、言語の用法による効果を開いているからです。
・結局閉じるも開くも素振りでしかないのですから、いくら作者が閉ざしたつもりでも、フロイトが患者の隠し事や嘘からトラウマを探り当てるように、閉ざされた言葉を解釈することは可能です。私がここで「閉ざす」素振りをするのには、そのようにしてでしか得られない言葉に纏わり付く雰囲気、もしくは「閉ざす」素振りをすることで得られる「詩」的な効果を得るためであり、くにたろうさんに対して何かを隠すためではないのです。
・つまり、私たちが批評でできる読者への貢献は、知的探求心を満たすことであり、私は私のプレイスタイルで、言うなれば「詩」的なものと批評の狭間で、そして解釈と表現の狭間で自分の出せる限りを尽くすために、このような文体や戦略を取ったのであって、その点からすれば、私は何一つ閉ざしてなどいません、何一つ隠していることはないのです。私にとって校閲のくにたろうさんと対等な立場になるというのは、情報を与えないということではなく、自分の出しうる全ての情報を出すことによってなのです。出したものが私の、そして私の批評の全てです。その意味では何も閉ざしてなどいません。私は自分の能力的な限界も含め、批評において自分の全てをぶつけたつもりです。くにたろうさんに対して出し惜しみはありません。
・それでもくにたろうさんに、私がこのようなスタイルを取った意味が伝わらず、何かを隠されているような印象を与えたなら、それこそ「書き手・校閲は共に(おそらくは校閲側が率先して)壁に穴を穿つ必要がある」のでしょう。であれば、くにたろうさんがとるべき行動は、このような開くか閉じるかのような振る舞いに関するメモではなく、私の文章に対する校閲だったのではないですか?くにたろうさんが興味を持っているという「どうしても残ってしまう、意図せず閉じてしまった言葉」を開くのはメモではなく校閲によってではなかったですか?私はくにたろうさんが校閲によって「門の形骸化」を突破することを、そして私の拙い批評がその力になれることを心から願っています。
2023. 05.20 くにたろう
・ありがとうございます。僕が心配し過ぎていたようです。
・閉すかどうかの素振りというよりは、展示作品そのものとの距離が問題なのかなと思い始めました。校閲そのものというよりは800の文章を批評としてどう位置づけるかという話になりそうなので、ここから先は校閲の方に書いていきます。
2023.5.20 みた
一度この返信は校閲の方のドキュメントに追加したのですが、それは個人的に違う気がしたのでこちらにカット&ペーストしました。校閲の方のドキュメントには壁の向こうを考慮したうえでやはり批評を載せたいと思ったので、次の文章が完成するまでお預けにします。以下は校閲のドキュメントで書かれていたことに対する返信です。
まず作品との近さで言えば、私がこの展示のお手伝いをしてしまっている時点でどうにもならないですね、そこをどうにかするなら展評の対象を変更するしかないと思いますし、私は全然その方向でもやる気はあります。というかこのままでは批評の外縁に関する話ばかりで校閲の本分である内容に関するやり取りが進みそうにないので日曜日に都現美行って「さばかれえぬ私へ」について書いてみます。たとえば成果物が複数できたらこの企画はどうなるんだろう。
だとしても、「この文章は人に見せられるレベルのものなのか」という内的な基準があって、かつ私の知識量や思考の練度では到底それをクリアしえないので、結局書き方とか言葉遣いとかにこだわって似たような文章になる可能性はあります。noteに書いてある「惑星ザムザ」の展評とかはかなり「メモ」の書き方と意識が近いので読んでいただければ一つの指標にはなるかもしれません。ただ私は自分の過去の文章を面白いとは到底思えないし、だから「800(ほぼ)」のような書き方をしているわけなので、過去の書き方をもう一度やるのはできない可能性がいっぱいあります。
あるいは別の方向性として、作品との近さがあっても批評は可能だと思います。私の意識としては自分と作品の近さという問題とも絡めながら書いたつもりではあります。例えば「美術批評ではなく展評」という意識は近さの問題にも関わるものです。美術批評として作品論を書くとき、作家や作品との近さでそれに関する「知っていること」の総量は増えるわけだから優位な部分もありますが、先程の「内的な基準」や一表現者のプライドとして形式に関係なく、展示のもつ価値にこの批評が劣るわけにはいかなかったし、そうでないなら展示の総体的な価値を下げるだけで(もちろん価値は一元化できないから私にとっての価値でしかないのだけど)、私にとっては書く意味がなくなるし、そもそも800字の批評では情報量勝負を仕掛けるのに無理がある。そうなると近さを情報量に還元するやり方は取れなくて、個人的な「予想を超えていきたい」みたいな意識とかも含めて「ストレートな批評」をやるのは能力的、字数的に難しくて(でも都現美の展評でできるようにやってみます)、そこに読む価値を与えるとなると「詩」的にはなってきますよね。「詩」的な方法はたしかに作品との近さから(も)要請された私のやり方だけど、短い文章に多くの意味を付与することができるわけだから、800企画の一つの妥当な攻略法でもあると思います。
というのは置いておくとして、この展評が美術批評でないならなんなのかといえば、社会批評に近いと思うのです。「東京物忘れ大学という事象、事件、事案としての展示評」が意味するのは単なる言い換えではなく、展示という出来事に対する社会批評(私は社会学とかその周辺分野に関しては無知なので、その実態を全く知らずに言葉を使用していますが)への接続可能性が、直接的に開かれているということでもあるわけです。これは後付けではなく、書き中から確実に意図していました。
既に述べたように、近さの問題がマイナスにしか働かないと思ってしまったなら、形式の方を変えるという発想をとるのが「自然な流れ」で、美術ではなく、社会の中の展示としての、展示から見る社会としての展評というふうに考えれば、展示の内容が示す、作家の抱える社会的な問題を批評するときに、作家との近さは有利に働きますよね。もちろん「800(ほぼ)」という文章はここで記述したような視点からのみ構成されるわけでは全くありませんが、作品や作家との近さ、800字という制約(みなみしまさんに言えば800字じゃなくてもいいよとか言ってくれるかもしれないけどたぶんそれをやるのは一組目の仕事ではない)、自分の意地とか能力的な問題、やり取り含めて読者に価値ある文章を届けるということ等々を視野にいれるとなると、社会=展示批評×「詩」的記述をとる、あのような文章になるんだと思います。
あるいは、「「東京物忘れ大学という事象、事件、事案としての展示評」って、展示作品を言語表現に置き換えただけなのではないでしょうか。批評としてそれを認めてしまっていいのか」という言葉を、私の批評が展示空間にあるものをただ言葉に置き換えただけであるということにも読み得るわけですが、私はそれに関しては断固否定させていただきます。あの文章には明確な、批評的な意図があるし、ただ言葉に写し変えただけではあの文章には絶対になりません。それに、展示空間にあるモチーフを羅列する書き方も普通やろうとは思わないんじゃないですか?それが出てくるというのは明確に意図を持っている痕跡だと思いますし、実際あの書き方に辿り着くまでに、私はそれなりに書いて消してを繰り返しています。あの文章はそういう痕跡も含めて成立していると思うし、ゆえにそこを見逃してほしくはないですね。そこを踏まえた上で批評として認めていいかを考えてほしいです。
とはいえ、この記事の公開方法に関して、途中経過を含めて公開する感じになるという発想が抜け落ちていたので、あくまで最終的な文章からいかに校閲の痕跡をおもしろく浮かび上がらせることができるかみたいなことを考えて書いていた節があり、それが必要なくなるとなると書き方や書く対象も変わってはきますから、そこを意識した上での文章も提出しないといけないなと思っているし、都現美での展評はその辺を絡めた上でできるようにしたいと思っています。
あ、でも「作品そのものに近すぎる」というくにたろうさんの言葉が批評ではなく作品として読んでしまうということにも解釈できたわけか、というかそう解釈すべきでしたね。だとすれば、くにたろうさんの意見は作品的な、そして「詩」的な表現ではなくメモのときのような文章っぽい文章で批評を書いてくれという要請だと、単純に考えればそういえるわけですね。それはやってみます。前述の文章は、くにたろうさんの「なぜ「800(ほぼ)」のような文章になるのか」という疑問には答えられていると思うので残しておきます。
以上の理由を踏まえて、ここで私がくにたろうさんに要請したいのは、これは私が素朴に思っていることでもあるのですが、校閲が文章の後にくることは必然的じゃないと思うので、文章に先立った校閲というのをやってみてほしいです。私は明日の朝から都現美に行くので、文章の完成はいつになるかわかりませんが書き始めが明日の朝になるのは確かなので、この部分にだけでもなるべく早く返信いただけると助かります(ただご無理はなさらず)。
2023. 5. 20 くにたろう
最後の部分に対しての返答です。
文章に先立った校閲、目から鱗です。まだあまり理解できていないのですが、それはどういうものになるのでしょうか?多分、文章の内容や方向性をあらかじめこちらから指定するということではないですよね(これまでのやりとりで僕の希望は大体伝わっていると感じています)。校閲の方針を定めて事前共有するということでもないでしょうし。
理解不足ですみません。ただ面白そうな予感はするので、内容を教えてもらい次第実行したいところです。よろしくお願いします!あと、読める文章が増えそうでシンプルに嬉しいです笑 明日は一日予定が入っていてあまりすぐ対応できないと思いますが、楽しみに待っています!
2023.5.20 みた
そうですね、私自身はディレクションのようなものを想定していましたが、あえてそう書かなかったのは「文章に先立った校閲」という言葉からくにたろうさんが何を発想してどんなアイデアが出るのか、その幅を狭めたくなかったからです。ですから「文章に先立った校閲」に内容があるとすれば、それはいまいった通りくにたろうさんの思う「文章に先立った校閲」をやってみるということになると思います。今回は難しいかもしれませんが、お時間があればぜひご一考ください。
2023.5.20 くに
なるほど、わかりました。
「さばかれえぬ私へ」用のドキュメントを作り、そこに文章に先立った校閲を載せておきます。確認しておいてください。
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