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愛のサイクル


私が一昨年よく聴いていた曲の冒頭に、こんな歌詞がある。

If you can't love yourself
How in the hell you gon' love somebody else?
Can I get a amen in here?

I’m Not Here To Make Friends by Sum Smith

自分のことをも愛せないのに、一体どうやって人のことを愛するというのか
賛同するならアーメンを!

という意味である。
メロディーがキャッチーなだけでなく、この歌詞の意味がグサッと刺さり、頭からこびりついて離れなかった。
何故なら私も、自分のことを心から愛している人間しか、本当の意味で人のことを愛せないと強く思うからだ。
アーメンである。

この議論をする上で、そもそも"愛"がどういったものなのかを定義付けておく必要がある。
これはあくまで私が考える定義だが、愛とは無条件なものであると思う。つまり、〜だから〜相手のために何かをする、という相手に何かを施すための理由や見返りが特になくても、相手にしてやりたい、と思う心である。

仮にそうだとすると、自分に何の見返りがなくても、特別な理由がなくても、相手を慈しむことが愛だとすると、本当にそんなマリア様のような人などいるのだろうか。想像し難い。
そこで考えたのだが、
仮に存在するとしたら、その人は、両親から無条件に愛され、自分のことを十分に、無条件に愛し、愛し尽くし、満たされ尽したから、他人に気を配れるのではないか、と思うのだ。
そして、自分で自分を愛することができるから、"愛"が一体どんなものなのかを理解することができる。だから、人にそれを与えることができる、のではないかと思うのだ。

人は、自分自身で経験し、理解したものしか認知することができない。カレーライスを食べたことがない人間に、どんな味かと聞いても答えられないだろう。それと同じだ。
愛され、自分を愛したことのない人間に、人をどのように愛するのか見せてみろと言っても、それは不可能なはずである。
だから愛には、必ず順序があると思うのである。
人を愛す前に、愛される、そして自分で自分を愛する。自分が満足する。その順序が崩れることはない。
生まれたての赤ん坊は、最初は母に愛される。そして自分を愛し、自分に満足する。そのうち気づいたら隣人を気にかけることができるようになっているのである。これが、健全な愛のサイクル、である。


世の中には愛だのなんの、人のために、あなたのために、そんなセリフが多く蔓延っている。
何回聞いたことか。
〇〇のために。 人のために。これが愛だ。
そんなに世の中には、無条件に、見返り無く、人のことを愛せる人が沢山いると言うのだろうか。


なんだか、多くの人は、見返りを求めているような気がしてならないのだ。結局は自分のために施しているような、そんな気がしてならない。

自分が気にかけてもらいたいから、気にかける。
自分が嫌われたくないから、親切にする。
1人で生きられないから、愛する、フリをする。
そんなんばっかりじゃないのか。

結局は、順番を無視するからいけないのだ。

自分のことも愛せないのに、愛していないのに、人を愛そうとするのは、不可能だ。
だから、人を愛す段階に行けないのだ。
だから、いつまでもいつまでも、自分を愛する段階から抜け出せないから、自分が人から愛してもらうことばかり考えて、人を愛することなんて、できるわけない。

仮に自分のことを心から愛し、そして相手のことを気にかける余裕が十分にある人間が、自分を愛する段階から抜け出せない人間と対峙したとしよう。
自分のことを心から愛している人間からすると、その人は心からその人を想っているのに、相手の心にはいつまでもいつまでも自分の心を満たす、癒すための手段しか用意されておらず、想いを返してくれないので、いつまでも片方がgiveし続ける関係性になる。
giveする側には大変がっかりした、モヤモヤとした感情だけが残り、最終的には静かにその場を去るのである。

愛というのは、サイクルが完成しており、精神的に成熟し、安定した者が手に入れることができる、大変貴重なものなのである。







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