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「まとも」って、必要ですか?


今から3年と少しまえ。

ぼくはそれまで日課だったパチンコを辞め、趣味を読書へ切り替えることにした。ぼくにとって、それはとても大きな変化だった。

朝目覚めたらカラダが入れ替わっていて、おっぱいをふにふにと触るあいつに起きた変化ぐらい、ぼくのなかでは大きな出来事だった。

ガチャガチャうるさい場所じゃなく、物音ひとつ聞こえない場所が好きになった。今までムダにしてきた時間を取り返すように、濃密な時間を過ごすことに力を入れるようにもなった。

家をでる10分前に起床していた自分が、早起きをしてまで自己啓発書やビジネス書を読むようにもなった。

その変化はさらに高い波をつくり、ぼくを遠くへ運びつづけた。読書をはじめたぼくは、そのことをもっと自分に活かそうと、読書感想や自分の考えをアウトプットするようになった。ツイッターやブログを開設して、社会に発信するようにもなった。

オンライン上だけじゃなく、オフラインの環境でも何かしたいと、読書会を開くようにもなった。書くことが好きになり、驚くほどヘタクソではあるけれど、自分で物語を書いてみたりもした。

他にも本を読み始めたからこそ起こった変化はいっぱいある。あの頃の自分のままでは絶対に味わえないようなことを、読書を趣味にしたことがキッカケで、たくさん経験させてもらった。

だからと言ってはなんだけど、おかげさまで、昔のぼくとは比べ物にならないほど、ぼくはまともになった(多分だけど)。

時間が空けばパチンコ屋に潜んで、負けたら家族に八つ当たりして、勝ったら勝ったでそのまま飲み屋に直行して、散財して。

それが日常だったぼくからすれば、今のぼくは、かなりまともになったと思うのだ。

3年前に1冊目をよみはじめたぼくは今、300冊目になろうかという数の本を読み進めている。何冊読んだのかなんて、何かに価値を与えるものではない。でも、あの頃の自分と比較する目安として考えるなら、わりに悪い数字ではないと思うのだ。

だからぼくは、ここまで変われた自分をすこし誇りに思っていた。自分に対して「やるじゃん」と、恥ずかしくも思っていた。

でも、つい先日、その誇りがガラガラと音を立てて崩れる思考が、ぼくのあたまにぼんやりと浮かんだ。



ぼくは、確かにまともになった。でも、それはこれからのぼくにとって必要なのか。そう自分に問いかけてみると、はいそうですと二つ返事できる自分は、どこにもいなかったのだ。


ある日、いろいろな本を読んでいくなかで、ぼくはひとつの重大な気づきに出会った。それは、「ぼくはビジネスに興味がない」、ということだ(お金がいらないと言っているのではない。お金は欲しい。何なら、たくさんたくさん欲しい)。

いま興味があるのは、カッコイイ文章の書き方だったり、素敵な表現方法だったり、息をのむ物語だったり、人間の裸の心が書きなぐられたエッセイだったり、さらには最近陶芸の本を読んでいたから、陶芸についてだったり。

そう考えると今の自分にとって「まとも」は、あまり必要ではないスキルなのかもしれないと思った。

まともな文章が書きたいわけじゃない。まともな生き方をして、誰かに褒められたいわけでもない。タバコだってまだまだ吸いたいし、お酒だってがぶがぶ飲みたい。

そう思うと「あれ?まともって、いる?」と、感じずにはいられなかった。「まともって面白いの?食べれるの?」と、自分の直感がそれを強く避けたがっている気がしてならなかったのだ。

本を読みながら、まともを目指して進んできた道のりを後悔しているわけじゃない。一旦まともになれたから、少なくとも、昔よりはまともに近づけたから、新たに生まれた問いだと思うから。ここまで歩いてきたからこそ掘り当てられた、自分の大切な感情だから。


今から3年と少しまえ。

ぼくはそれまで日課だったパチンコを辞め、趣味を読書へ切り替えることにした。それからというもの、ぼくの日常はおおきく変化した。

普段はダメダメなのに、劇場版になるとメチャクチャ勇敢になるのび太ぐらい変わった。

そして今、また大きな変化の兆しを感じた。

今はまだ、何も見えない。何も掴めない。でも、その先に何もないことは絶対にない。それだけは確かな気がしたから、その手の鳴る方へ、ぼくは行ってみようと思った。




とか言って、超しょうもない目的地だったらどうしよう。そのときはまあ、昼から酒でも飲めばいいか。

へへへ。


我に缶ビールを。