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純粋理性批判の翻訳、出版しました

二年半かけてようやく、純粋理性批判の翻訳をAmazonKindleで出版しました。

タイトル、リンクは「現代語訳 純粋理性批判 完全版」です。

KindleUnlimited対応です。読み放題で純粋理性批判の日本語訳全訳が読めるのは私の訳したこれだけっぽいです。光文社の純粋理性批判は1巻のみKindleUnlimited対応のようです。

外出自粛要請下なので時間を持て余している方にお勧めです。多分、理解しながら読めば、3日は保ちます。精読すれば1週間保ちます。電子書籍だから嵩張らない。場所を取らない。

宣伝だけになるとアレなので冒頭を載せます。

多分、Amazonの試し読みで読める範囲だと思いますが、試し読みは読みづらいので。

以下、序文の最初の方


(1)
 理性活動に関する研究は、科学が成功するか失敗するかを判断する試金石である。目的を果たした後にしばしば違えた道を戻ることがある。これはむしろ歓迎するべきだ。固執してはいけない。同様に様々な仲間と一致した意見を構成することができない時もあるだろう。そのような科学は確実な方法ではない。無駄のない道とは遙か遠いモノである。手探りで見つけ出すことになり無駄に時間を浪費するであろう。既に示されていた考えに含まれていた可能性すらある。

(2)
 その理論は既にアリストテレスが確実に樹立させ、一歩も後退することはなかった。誰一人として排除できなかった。あるいは改良して科学を安定させることは優雅なこととすら考えられる。滑稽なことに、今まで誰一人も前へ進むことができなかった事実はあらゆる完璧な名声を閉め出した。なぜならいくつかの新しい思想が、部分的にも認識の起源や力(想像力や分別)を部分的に形而上学の認識、あるいは様々な信念の多様性を題材とした(理想主義、懐疑主義など)部分的な人類学の偏見(一服盛られて解毒剤を押し込むような)は科学特有の性質を知らないことが原因である。科学の境界は互いに歪みを増し噛み合わない。お互い一歩も譲らず、論理的に正確な学問であるはずの科学は周囲と調和しようとしない(それが予め規定されているのか、経験的なモノか否かを問わない。また、我々の心を都合良く障害から目をそらせる)。これについて厳密な証明をしようではないか。

(3)
 まず、その論理学は良い感じに成功している。限られた範囲であれば認識において有用である。論理学の形式に囚われるなら、理性もそれに囚われた道を辿るしかない。しかしこれは大抵の場合、的外れで正しい道を辿るには困難を極める。だからこの「学」の研究は、予備教育であると認識することが前提となる。知識について語る時も客観的に正しい情報を得る必要がある。

(4)
 さて、この学問を上手に使うには、まず先天的に認識が可能であると言う(他で既に与えられた)概念だと言うことを考慮しなければならない。理性の理論的と認識と現実的な認識の二つである。両方とも純粋な部分が多かれ少なかれ含まれている。ここで言う純粋とは先天的に与えられた部分のみである。他の部分は害悪で毒ですらある。経済に例えるなら、予算を無視して、後でそのツケを泣きながら払うことである。

(5)
 数学と物理学は論理的である。数学は完全に純粋であり、物理学は部分的に純粋である。部分的にということは、理性以外の情報源があるということである。

(6)
 数学とは人類科学史の初期から、称賛に値するギリシャ人が確固とした道を開いてきた。しかし論理学は単純である。なぜなら自身の正当性への道を自分で舗装すれば良いからである。逆に数学(特にエジプト人にとって)は長い間手探りで一歩ずつ進歩をしていった。そこに幸運な変革が生じた。今までの鈍い歩みが一気に加速し、無限の可能性を秘めることが判明したのだ。これは喜望峰の発見よりも幸運であった。だが、この知的革命における立て役者の名は残っていない。ディオゲネス・ラエルティウスが記した資料によると、幾何学的証明の必須要素でない部分にすら今までにない重要な発想の発露があるのである。これを忘れてはならない。初めて二等辺三角形の証明をした人(タレスと呼ばれていたかも知れない)が数学の道に明かりを灯したのだ。彼はその図で発見した概念を用いてその先を見つけられないことを理解した。発見した事実からではなく、発見した自分の先天的な考え方こそが価値のあることだと気付いたのである。

(7)
 自然科学の進歩は遅々として進まなかった。ヴェルラムのベーコンの先進的な考えが登場したのはつい一世紀半前である。やはり、加速度的に進歩をする軌道に乗った数学と同様に革命的な変革が必要だった。ここで、私は経験的な実理に基づいて自然科学を考察する。

(8)
 ガリレオが斜面に玉を転がした時、トリチェリが水柱の重さを予め量っていた時、シュタールが金属の酸化還元反応を見つけた時などである(*)。自然科学者に示された道標は、己が見ている実理を継続して守り、自然という法律に従い、なおかつその自然に己の問いの答えを求めるということである。さもなくば、自分の分別が自然に翻弄されてしまうのである。なぜなら、実験は自然法則という法律が絶対である。実験者は先生に手取り足取り教わる生徒ではなく、一人前の裁判官のように自然という証人から真実を聞き出すのである。物理学でさえ、その思考の革命が切り込んできた。理性とは自然から学ぶことができ、そしてそれ以外からは学べない(他から得られるモノは紛い物)ということである。このように自然科学は十数世紀もの間、素手の手探りから解放されたのである。

(*:私は実験方法の歴史の糸を正確には追っていない。なにしろ、何が始まりなのかが分かっていないからだ)

(9)
 一方、形而上学は孤立した理性認識である。これは経験による学習を一切排除し、概念のみ(数学とは違い、直観を応用しない)を用いて己自身を理性の生徒とする。この道程はかつては安全でなかった。形而上学は老練で他の学問全てが野蛮という奈落に飲み込まれても残る。なぜなら(推定されることだが)形而上学が最も醜い道を歩まされて訓練されたからである。先天的な理解すら詰んでいるのだ。おびただしい回数、道を引き返さなければならない。なぜなら、我らが求めるモノはその先にないからである。また、形而上学者の意見は満場一致をしていない。むしろ戦場と言っても過言では無い。この戦場はもとより研鑽した力を戦士が振るう闘技場のようにすら思える。戦士は打ち立てた勝利を長く保持することはできなかった。従って、形而上学の議論は最低の概念を素手で手探りするのようなモノであったことに違いはない。

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