「『君たちはどう生きるか』をどう見るか」を語る人たちについて

公開日の朝イチで見に行った。数多いるジブリファンの中でも偏差値55くらいのイメージでややガチ寄りの自負のある自分であるが、いろんな人がいうように冒頭の20分くらいまでは開いた口が塞がらないくらいの衝撃を受け続ける作品、映像だった。

が、明確にその後「冷めた」瞬間があった。
この方↓の考察にあるように、最大の作画枚数がかけられたCut26が本当に衝撃的で、一気に引き込まれるすごい映像だったのだが、
https://purplepig01.blog.fc2.com/blog-entry-326.html

このカットを、少しだけアレンジして再利用するシーンが、その後にも出てきたときが、その「冷めた」瞬間だった。

今まで宮崎駿の演出でそういうのあったか。。。?と。
よくある他作のTVアニメシリーズなどでは、(低コストの中で尺を水増しするために?)同じシーンを毎週毎週差し込んでいたりしたと思うが、あのジブリで、宮崎駿がそれをやった?と。

そこから先は、セルフパロディにしか見えなかったのが正直なところだった。
コダマのような「ワラワラ」
『千と千尋』の海列車のシーンと『ポニョ』の船団シーンを合わせたかのような異世界導入編
ジブリ美術館の特別展示のうち『風立ちぬ』公開後に企画されたであろう『クルミわり人形とネズミの王さま展』(2014.5〜2015.5)と『幽霊塔へようこそ展』(2015.5〜2016.5)の直接的な反映
…etc

母親の喪失に囚われる少年を描くのも、宮崎駿が数々の密着取材と人物評を受ける中で形成された「亡き母への想いが滲み出てしまう作家」(特にNHK「プロフェッショナルの流儀」の荒川格さんの)というセルフイメージが影響しているように思えた。ある種のファンサービスとしての主人公像。

文系的な「分析」、特にジブリ映画のような大衆娯楽作品を評論するような場合には、得てして評論者の自己投影が混ざりがちだ。評論している人が知っていること、思っていることと、得た映像を結びつけて大枠のストーリーを仕立て、さまざまな間接証拠で補強してとりあえずの「XX論』を構築する。

その辺のガチ勢の悲哀に自覚的なのがアーティストの村上隆さんだと思う。


よほど暇なら『君たちはどう生きるか』の受容過程のようなものを定量的に分析もしてみたくなるが、すでに多くの人が好き勝手に投影をしているようなので、ちょっと手に余るしやらないだろう。

中谷宇吉郎が雪を「天からのメッセージ」と評したように、ある種の人間にとっては芸術作品もまたメッセージ(プロパガンダとは違う)であり、
一方で宮崎駿は本作の絵コンテ製作初期(2016年末)に
「何もやってないで死ぬより、やっている最中に死んだ方がマシだね」(『終わらない人 宮崎駿』より)
と言うように、メッセージ(プロパガンダとは違う)を残したい欲望があって、需要と供給がマッチングしていた。

結果、色々な解釈をして欲しがっている作品になったように、私には見えた。
その意味では『エヴァンゲリオン』の庵野秀明から、「作品と作家を分かち難いような演出、ストーリーとして、さまざまな解釈を呼び込む」方法を逆輸入したように見える。

しかしそれは、人を冷めさせる中盤以後の話であって、最初の20分くらいに関しては妙な解釈・解説が不要な迫力があったことにこそ着目したい。

最初の20分は、どう見ても『かぐや姫の物語』(2013)へのアンサーではないか。高畑勲が、在来工法のスペシャリストたちを集めて膨大なコストをかけて作画した「疾走シーン」をみて、それは宮崎駿にある<メッセージ>として受容された。
それを、直後の『毛虫のボロ』で、2010年ごろには「マスタベーションのよう」と毛嫌いしたタブレットを試験的に導入してCGスタッフと交渉経験を重ねたうえで、長編に活かして、「俺ならこう作る」と言わんばかりの「疾走シーン」を作り上げたのだ。


その20分の絵コンテは、まだ高畑勲が存命中の2016年末に描かれ、長編を新たに制作することに消極的な鈴木敏夫プロデューサーの説得にも使われた。


疾走シーンの後も、『かぐや姫』が平安の寝殿造なら、こっちは昭和初期の田舎の名家だと言わんばかりの、子供視点での描写。老婆たちのぬるぬるとした動きも含め、あの坊ちゃんの「しんどさ」がよく伝わってくる名シーンの連続だった。俯瞰の高畑に対して感情移入の宮崎と言った感じで、ただただあの主人公と気持ちが一体になってしまうような引力だけがあった。

そう考えれば考えるほど、大衆娯楽を作る上での手腕と覚悟の凄まじさを思わざるを得ない。後半が「わかりにくく」さまざまな解釈を呼び込む作りをしているのは、ほとんどあらゆる手を尽くした上で、作家自身すらネタにしなくてはならない<ネタ切れ>状態だったのだろうと偲ばざるを得ない。

半径3メートル以内と極端な言い方をしつつ、身の回りの経験をネタにする作家にとって、コロナ禍でソーシャルディスタンスを取らざるを得ない状況では、ネタのロジスティクスに致命的な影響を被ったのだろう。
結果、インナーバース(精神世界)の半径3メートル、要するに「常日頃から気になっていたこと、過去の強烈な想い」をネタにせざるを得なくなったのだろうと思う。

これもまたジブリ映画の特徴の一つで、映画もさることながら、映画制作を追ったドキュメンタリーは輪をかけて面白い、と言うのがある。

本作についても制作過程が気になる。
本当に、あの疾走シーンを作った時の現場の雰囲気はどうだったのだろう。CGスタッフの方々とハイタッチしたのではないか。。。
謙虚に「恥ずかしくない仕事をしたい」と逐次言っている監督だが、もっと積極的に「これは誇れる仕事だ」とお互いを称え合うようなことがあったのではないか、、、
そんなことを思いながら、前半20分は目頭が熱くなっていた。

制作実態がわかる分析やデータ集、ドキュメンタリー映像の登場を待ちたい。
素人の自己投影による「評論」は、自重した方が良い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?