男性社会の批判の、方向性について思うこと

フェミニズムの議論の前提?に異議あり

高橋璃子訳『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』(河出書房新社, 2021 原著はスウェーデンにて2012年出版)

で日本でも広く知られることとなった著者のカトリーン・マルサル。
彼女はさるインタビューにて、
「アダム・スミスは自身の母親のことを環境だと思っていたのだ
と語ったという。
(阿古真里、藤原辰史[対談 ケアの家政学]「家政学の思想」『現代思想』p56)

『アダム・スミスの〜』はタイトルがそうであるように、経済学の前提に対して繰り返し疑問を呈していくスタイルで書かれている。
透明で合理的な主体としての経済人=ホモ・エコノミクスは現実のどこにいるのか?
具体的に、あなたの生活は経済人同士の交渉・交流だけで成立していますか?そうでは無いですよね?
アダム・スミスの夕食を作ったのは「神の見えざる手」ではなく、母親ですよね?と。

経済学が語る市場というものは、つねにもうひとつの、あまり語られない経済の上に成り立ってきた。
(中略)
子どもを産むこと、育てること、庭に花や野菜を植えること、家族のために食事をつくること、家で飼っている牛のミルクを搾ること、親戚のために服を縫うこと、アダム・スミスが『国富論』を執筆できるように身のまわりの世話をすること、それらはすべて経済から無視される。
(中略)
見えざる手の届かないところに、見えない性がある。

[本書p27]

家が持つ諸機能を発揮するにあたって必要な存在の1つが、たまたま母親だったという見方(をアダム・スミスがしていたのだ、というマルサルの見方)。

こうした内容のせいか、チラチラとネット上で同書の書評を見る限り、本書を「女性が不当の扱いを受けていることを痛快に切っている!」的な受け止め方にとどめる向きが多いように思われた。
が、この本のミソは、フェミニズムを身体論として展開している点ではないか。

例えば
「経済人は人の感情を選好(好み)に変える。そこには微妙な心の揺れなどなく、要求があるだけだ。選好は個人のものなので、わざわざ面倒な関係を築く必要はない」
(同書p220)
と考察した上でこう続く。

そして同時に、あなたの身体は消え失せる。経済人の世界では、身体はただの人的資本だからだ。身体はもはやあなたの一部ではなく、あなたの所有物であり、活用して利益を出すべき道具だ。

[同書p221]

一方で、人的資本としてではない、その生身の体を支えているのは誰か?と、タイトル通りの挑発的な問いかけが展開される。

この論の文脈として基礎に据えられるのは、
経済人=男性的という図式であり、その対義語として以下のような概念が「女性的」とされるという整理だ。
弱さ/自然/身体性/非合理性/依存性

かくして女性的なものを抑圧し、合理的な経済世界を作り上げ、男ども(および男性社会に溶け込んだ女性)はそこで競争させられている、ああかわいそう。というストーリー。

しかしちょっと待ってと言いたい。

少なくとも現在の日本社会で働いている身としては、そこまで合理的な競争社会すら整備されてなくないですか?と思わざるを得ないのだ。

この著者は北欧の女性だからだいぶ見ている世界が違うのかもしれないが、私が見てきた「経済人」というか、まあ労働者+経営者は、明晰で透明なルールの上でフェアな競争をしている、、、という感じはない。
むしろ
弱い
 =他責的、所属組織外への負担の転嫁
自然
 =感情的に怒る、泣く、無計画な計画
身体性
 =オフラインのコミュニケーション(喫煙者会議も含む)で決まる諸々、態度の大事さ
非合理性
 =言わなくて良い嫌味を言う、陰口・噂・レッテル・好き嫌いで人事
依存性
 =いつまで経っても属人的なワークフロー、相手によって変わる態度

と、「女性的」なものと括られた特徴をフルセットで兼ね備えているのだ・・・!


頼むからもう少し合理的であってくれ

そうトゥイート(ため息)せざるを得ない。


競争は嫌。でもグズグズな人間関係はもっと嫌。

思うに、問題は、官民という意味じゃない方の「公私」の考え方にあるのではないか。

英語で経済を意味する単語「economy」はギリシャ語で家を意味する「oikos」からきているが、経済学者は長いあいだ家のことを無視してきた。女性の自己犠牲は私的な領域に属するものであり、経済には関係ないと思われてきたのだ。

[本書p46]

みんな大好きエコノミーの語源はオイコスだよの話。
その流れで「女性的」な概念として「私的領域」が追加された。

この私的領域は、日本人である我々も馴染み深い。
確かに幼少期の主な庇護者は母親だった。
保育園の先生たちも女性ばかりだった。

昔は子供だった現代のおじさん・おばさんたちも、この時期の私的領域の甘美さには思い当たる節があるのだと思う。
そのマジョリティの共通体験があるために、その逆の「公的領域」で化け物に変容するのではないか。

と言うのも、非合理的な振る舞いをするモンスター・ホモ・エコノミクスMHE(仮称))は、押し並べてこんなことを言うからだ。

仕事は仕事。プライベートはプライベート。厳しくする時は、ビシッと厳しくしないと、でしょ?

と。

そして、この「厳しくする」の厳しさが変な方向にドライブするのがMHE(仮称)の特徴だ。

ON/OFFの切り替えが大事で
OFF=私的領域ではすごく甘くするから
ON=公的領域では、どれだけ厳しくしても良い
とでも言うように。

場合によってはガチの犯罪スレスレ、控えめに言って倫理的にいかがなものかと言わざるを得ない行為もする。
宮台真司が「日本には社会がない。所属組織のことしか考えない」という旨のことをabemaかyoutubeかで言っていたが、まさにこれだ。

↑極端な事例

「経済人=男性性」の図式を批判するならば、経済学上の架空の点(透明かつ合理的な)としての不当性ではなく、むしろ男社会の非合理性の方をこそ!と言うのが私見だ。

否、もっとはっきり言えば。

私的領域での家事労働や育児の方が、よほど合理的で生産的で、素晴らしい仕事じゃないですか?
女性を男性社会に送り出していこう的な論調には疑問を持ちます。
今の男性社会はグズグズすぎる。理想的な競争はない。できるだけ、これ以上このグズグズに巻き込まれる人が増えるべきではない。というのが私見です。はい。

とはいえ前提になるのは資本主義社会であり、労働者は自由の身分として消費活動を行えるし、行いたくなる。その方が労働者自体がマーケットとなって社会的にも都合が良い。
消費するにはカネが要る。カネを稼ぐには労働が必要になる。
かくして生産の公的領域と、消費の私的領域という認知が強固になっていく。
私的領域で行われる家事育児は、まだまだ有償労働として十分な地位を、生産者としてのメンツを確立できていない。
(参考 「家事労働者条約採択から10年―ILO報告書」
https://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2021/10/ilo_01.html)


何を再生産するのか

家事育児、介護などは「再生産労働」と定義されている。
曰く「生産的労働力を維持するための労働」、すなわち労働力を「再生産」するための労働だということだ。
「再生産労働のグローバル化の新たな展開(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/60/3/60_3_364/_pdf)」

いわばモンスターを回復させたり預かったりする「ポケモンセンター」と、まだ卵状態の子供をイッパシのモンスターに育てる「そだてやさん」の機能が、まだまだ私的領域に託されている状態なのだ。

その意味で、マルサル氏がアダム・スミスは母親のことを「環境」だと思っていたはずと考察するのは、当たっているのかもしれないが、そこから論を展開するにはサンプルとして特殊すぎると言わねばならない。
「環境」である母親(ないし妻)のもとで腹を満たし、睡眠をとったモンスターは、多くの場合、机の上で普遍的な仕事に立ち向かうわけではない。

「神の見えざる手」は、観測する限り、公的領域にすら存在していない。
普遍的な最適解へと収斂していく合理的競争+成果に応じた報酬があるのではなく、ただの泥臭いモンスター同士のバトルと気まぐれな賞金と名誉と株価変動の堂々巡りに巻き込まれていくだけだ。

モンスターはバトルの中で、社内ネグレクト、陰口の叩き合い、責任転嫁の応酬、雑なコミュニケーション、通勤を含む肉体的な負荷、終わらないトラブルシューティング、、、等々の当事者になるか傍観者になるか、いずれにせよ心身を消耗する。
そんな公的領域に適応すべく、また一人、新たにモンスターが生み出されていく悪循環。気づけば自分もモンスター化しているかもしれない、いや自分は誰かにとって既にモンスターと見なされているかもしれない、その後ろめたさ。
これを抱えながら私的領域に戻り、一呼吸して再び生産(カネ稼ぎ)に向かう。

この因縁を断ち切る方策はあるのか?

当たり前だが人は「環境」ではない。
また、理論上の「経済人」とは比べ物にならないほど愚かである。

人は環境ではないというのと同じ意味で、多くの人は男性的でも女性的でも、公的でも私的でもない。
内臓を含む肉体にバリエーションがあり、そのコラボレーション次第で新たな生命を再生産できることもあるだけだ。

***

本書で気に入っているのは次の一節だ。

もしも身体を直視し、経済の基点とするなら、それは政治的に大きな意味を持つはずだ。振り上げた腕、踏みだす足、床を磨く手、食べる口。それぞれの身体のニーズから出発して築かれた社会は、今の社会とはかなり違ったものになるだろう。

[同書p222]

具体的にどういう社会かこれ以上は記されていないし、筆者が回答するにはあまりにも手に余る案件だし、何人集まって考えてもすぐには像を結べないだろう。
しかしこうしてnoteに何がしかを書くのも、個人的には「胃のニーズ」に従っている自覚ある。
仕事関係で神経をすり減らし、下痢気味になった時にこそ書くモチベーションが上がってくる。

こうした全く個人的動機で行われる行動が、きっとなんらか普遍性を帯びる、社会づくりの末端の末端の一端になる。

そう信じながら、今日もあいまいに立ち直って、タスクを撃破しに、仕事に向かうのでした。


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