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シンポジウム「江戸川乱歩 自筆資料の魅力と可能性」に行ってきました。

 2023年11月12日(日)に、立教大学で行われたシンポジウムに参加させていただきました。これはその時のレポートという名の備忘録です。

久々の立教大学。相変わらず素敵な建物。
当日は他にも色々な試験の会場になっていました。
13時から18時!なんと5時間も!

 シンポジウムのタイトルにある、「自筆資料」とは、今回のシンポジウムでは主に『貼雑年譜』のことを指します。
 こちらに関する、成立背景や調査研究の成果、保存方法、復刻版やオンライン版の制作背景を中心にした発表を拝聴する会でした。
 そして、特別ゲストには生前の乱歩を知る、東京創元社元社長・戸川安宣氏と、江戸川乱歩の御令孫・平井憲太郎氏のお二人が、『貼雑年譜』の復刻版制作の際の裏話や乱歩の思い出などを語ってくださるという、大変貴重で豪華なシンポジウムでした!
 プログラムの前半は、ゲストお二人の公演とインタビュー、というトーク中心の講演で、後半は立教大学の現役研究者陣が自身の担当する研究成果の報告、最後に質問タイム……という構成で、13時から18時までのガッツリ5時間という大ボリューム!! ええんか……無料でこんなん……5時間も乱歩の話聞けるとか……と思いながらも、あっという間の5時間でした。
 その興奮を忘れぬためにも、こうして文字に残しておこうと思います。

江戸川乱歩と池袋

 江戸川乱歩については今更説明の必要もないですが、池袋に来るまでの乱歩について前に書いた記事を貼っておきます。

 どうして今回のシンポジウムが立教大学池袋キャンパスでの開催なのか、これもご存知の方には今更ですが、引越し魔で有名な乱歩が昭和9年から昭和40年の31年間の後半生を過ごした終焉の地でもあり、その住まいであった旧・乱歩邸が残されているのが、立教大学の隣です。(当時は現在のように隣接という位置関係ではなかったようですが、立教大学の6号館が新設されたことにより、現在のようになったそうです)

旧江戸川乱歩邸。この日は公開日ではなく残念。
立教通りで乱歩邸を案内してくれるフクロウさん。

 乱歩の御子息である、2015年に亡くなられた平井隆太郎氏が長年勤務されていたのも立教大学でした。
 そんなご縁もあり、2002年に、旧・乱歩邸と幻影城とも言われる乱歩の蔵書を収めた蔵の管理を立教大学が担う事になり、2006年に江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが設立されました。建物の改修や資料の保存、補強、復元、などもこちらでしてくださっています。

こういった乱歩の展示図録って案外少ないんですよね……。

 上記の写真は、 立教学院創立一三〇周年を記念して2004年の8月19日~24日に、東武百貨店池袋店・ 立教大学旧江戸川乱歩邸にて開催された「江戸川乱歩と大衆の20世紀展 」の図録です。
 20年前なので当時の私は知るはずも行けるはずもなく、後から入手したものになりますが、行きたかったですね……。そして、来年2024年は乱歩生誕130年の年なので、旧乱歩邸の改修が終わったらまたやってほしいです。

 生涯に46回、東京都内でも26回の転居を繰り返した引越し魔の乱歩が、池袋を最後に転居しなかったのかは、明確な理由が書き残されているわけではないので想像するしかありませんが、考えられているいくつかの理由の一つとして、乱歩はこの池袋の地で戦争を経験しました。
 戦時下で、作家は思うように作品を発表出来ず、特にミステリはご時世的にも厳しかった時代です。
 探偵雑誌が軍部の検閲のもと次々に廃刊となり、昭和14年には乱歩の「芋虫」(昭和4年の作品)が全編削除を命じられ発禁処分、それまで発表された乱歩の作品も事実上の発禁扱いとなりました。そして、昭和17年には既発表作品全てが絶版。
 そのような時代背景もあり、内務省のブラックリストに載った(本人肉声による証言/『探偵小説四十年』でも新潮社版選集刊行の際の検閲・出版裏事情をこぼしている)乱歩に出版社から新規の作品依頼もほぼ無く、書いても不適切と判断された箇所は書き直しを命じられるという、探偵小説作家の乱歩にとって書こうと思っても書けるものが無い状態でした。

 先述したように当時の乱歩は、新作を発表することが出来ないため原稿料も貰えず、これまでの作品もほぼ絶版状態で印税収入もない状態でした。
 しかし、作家としては収入的にもマイナスの状況ではありますが、その書くことができない状況から生まれた空白の時間は、人間・平井太郎にとっては悪いことばかりではなかったようで、人嫌いで人見知りの乱歩が活発に近所付き合いをしたり、『貼雑年譜』という自分史とも言えるスクラップブックの作成を始めたのも池袋時代です。自分の人生の大きな出来事と共にあった地というのは、一つの大きな理由として考えられそうです。
 鳥羽時代にも社報(鳥羽造船所『日和』)を配ったり、子どもたちに読み聞かせ会を開いたりしていた乱歩なので、人付き合いが少し苦手なだけであって、人のために何かするのは嫌いではなく、むしろ<人を喜ばせるのが好き>、という気質が池袋で開花したのかもしれませんね。
 他の理由としては、借家ではなくなったからというのもあるでしょうし、御子息・隆太郎氏の勤務先が隣というのもあるでしょうし、年齢的に棲家をコロコロ変えるのも面倒だったのかもしれません。本当のところはわかりませんが、乱歩が池袋の地を気に入っていたことだけは、残されたエピソードや文章から察することができると思います。

『貼雑年譜』とは

 『貼雑年譜』とは、先述したように、江戸川乱歩の自作の自分史と言われるスクラップブックのことです。(乱歩自身は「貼雑帖」と表記していることもあります)
 昔から収集癖のある乱歩は、デビュー以前の幼少期から、自身に関することや、興味のあるものに関する、雑誌や新聞の記事の切り抜き、チケットや広告、手紙やはがきなどの膨大な数の資料を保存していました。
 もともと保存していたそれらの資料を、年代順や項目に分けて分類し、自身の記憶や周囲の人の聞き取り調査をもとに、細かな解説を加えてまとめていったものが『貼雑年譜』と呼ばれるスクラップブックなのです。
 このスクラップブックの凄いところは、その膨大な量もさることながら、自分に関する小さな記事でも見逃さずに集めているという几帳面さや、自身が記憶していない(2歳の時には鈴鹿に引っ越している)はずの三重県名張の生家の図面も、母親などから聞き取り調査し、詳細な間取りを自身で書き起こしているという徹底ぶりです。(戦後、忙しくなってくるとスクラップを貼っただけという状態になっていくとはいえ……)
 『貼雑年譜』は全9冊あり、乱歩が生まれた明治27年から昭和39年までの記録で、手貼りされた切り抜きなどビジュアル資料も多いことから、これまで完全な形での復刻は実現されていませんでした。
 過去に『貼雑年譜』として、一部が収録され書籍化されたものとしては、2通り存在します。講談社版と東京創元推理社版です。

2003年にバイト代で買ったもの。もうボロボロですね…。

 まず、講談社版は江戸川乱歩生誕100年記念の講談社版文庫全集(江戸川乱歩推理文庫全65巻)の付録(特別補巻)として作られた、190ページの分厚い図録のような形のものです。
 こちらは価格も手ごろで乱歩ファンなら大抵目にしてことのある普及版として重宝されてきました。
 しかし、これはあくまでビジュアル資料集的なものであり、『貼雑年譜』そのものを再現したものではないので、中身の殆どはモノクロで印刷されているので色は分からず、貼り付けられた袋の中身や折込部分、裏面はどうなっているか、紙質はどんなものが使われているか、といったものはどうしても解らない……というものでした。

 そして、もう一つが、今回のシンポジウムの登壇者のお一人でもある戸川安宣氏が作られた、『貼雑年譜』の①巻と②巻の<完全復刻版>とも言える、2001年刊行の東京創元社版『貼雑年譜』です。
 こちらは、完全予約制の限定200部、本体価格30万円という、一般のファンではちょっと手が出ないもので、購入者は主に研究者や学術系機関、著名なコレクターの方が多かったようです。
 ですが!! 30万円、全然高くないんですよ、これが……。
 私も以前、この<完全復刻版>を成蹊大学図書館の企画展示(2015年「探偵小説の系譜」展)で見せて頂いたことがあったのですが、その時も「うっわ、スゴ……」ってなりました。なりましたけど、今回その<完全再現版>刊行までの道のりを拝聴して、「そら30万するわ……」と。

戸川安宣氏と『貼雑年譜』

 戸川安宣氏は、東京創元社の元・社長であり、編集者時代には、北村薫先生、有栖川有栖先生、宮部みゆき先生など著名なミステリ作家を世に送り出してきた方で、乱歩ファンのみならずミステリファンには、よく知られた人物です。
 戸川氏は立教大学のOBでもあり、また、立教大学文学部在学中に「立教大学ミステリ・クラブ」を創立し、その顧問が乱歩の御子息である故・隆太郎氏だったというのですから凄い。そういった御縁もあり、顧問である隆太郎氏から、学生時代に実際の『貼雑年譜』も見せて頂いた経験があったそうです。
 卒業後、戸川氏は東京創元社へ入社。
 戸川氏は「いつか見た『貼雑年譜』を出版してみたい……」と思うようになり、企画立案を試みるのですが、そのままトレスで出版できるような代物ではなく、折込部分をどうするか、貼り込みの裏面はどうするか、など問題は山積でした。(これに関しては、講談社版でも方法を二転三転と試行錯誤してあの形になったようです)
 戸川氏が、<自分の見た『貼雑年譜』を可能な限り再現した形のものを作る>となると、300部作ってようやく1冊20万円弱(当時の価格で)という計算になり、受注生産で300部の注文が来れば出版に踏み切れるという企画が立ち上がりましたが、この時の企画では220部くらいで注文がストップしてしまったらしく、企画は一度中絶となってしまいました。
 ですが、やはり「貼雑をやりたい……」と思い、前回の申し込み数から200部は必ず買う人がいるはずと踏んで、今度は受注生産ではなく200部限定という形で出版を決めたそうです。
 販売価格1冊30万円で予約を募りましたが、当初の申し込みは110人程度……だったそうですが、某テレビ番組で取り上げられ、結果的にはめでたく完売となったそうで、今ではプレミアモノのファン垂涎の貴重な品。
 それが、東京創元社版『貼雑年譜』です。

 形に出来ることは決まりましたが、問題はここからでした。
 どうやって、そしてどこまで、再現するか、という問題です。
 <完全復刻>に拘ると、必ず制作過程で一度バラさないといけなくなります。また、貼り込んだものの裏面も再現するとなると、貼り込んだものを剥がさなくてはいけません。これは絵画や古文書などの修復を専門とする業者(紙資料修復工房)にお願いするので大きな破損の心配は無いとしても、<乱歩が貼ったものではなくなってしまう>というデメリットもあり、そこに葛藤はあったようです。

 少し話は変わりますが『貼雑年譜』に限らず、こうした資料の保存の問題は、各文学館・記念館さんが抱える問題でもあります。今、近代文学関連の紙資料の保存が限界にきている時期だと思います。これらの資料をどうやって守っていくのか、問われる時期に来ています。
 <資料を守る>といっても、ただ保存しておくだけでは、やがて朽ちていくだけです。そして、誰にも(または一部の限られた人間にしか)見られないものが<資料>と言えるのか、という問題も。
 確かに、本人の痕跡を可能な限り残しておくということも大切です。
 ですが、こうしてご遺族の協力の元、一般の読者である私たちにも貴重な資料を<体験>させてくださる事、本当にありがたく思います。
 全国の文学館・記念館さんの資料保存、修復にも、多くの人材と財源を必要とします。私もなるべく足を運んだり、図録などにお金を落としたり、会員になったり、募金したりしております。一人一人の力は微々たるものですが、みなさんも、展示を見に行った際には、少し思い出していただけると幸いです。

 話を戻して、制作過程での葛藤を乗り越え、いざ制作に取り掛かるため『貼雑年譜』をバラしてみると、乱歩の丁寧な仕事や何度か貼りなおされた跡などが改めて解り、それもどこまで再現するかの課題の一つになりました。
 もちろん、<完全復刻>を目指すものとして、封筒やはがきは一枚づつ宛名を印刷、雑誌の切り抜きなども別に印刷して、手作業により200部全てに一カ所づつ貼り込んでいくという手間のかかったものになります。
 が、そうした手間の問題だけではなく、
・『貼雑年譜』は封筒や切り抜き、はがき、などを貼り込んでいるため、どうしてもその個所に凹凸が生じるのですが、それを均一な冊子にする為、綴じしろに紙を挟み込んで各ページの面をフラットにするという技が使用されていたため、その手作業での工程が増えることで予算が上がる。
・台紙のきらびき紙や封筒の種類も可能な限り似たものをそれぞれ確保する。
・紙の色味の変色具合を再現しようとする際、表面に貼られた新聞紙の影響で酸化が激しい部分とそうでない部分の色味の再現や裏写りの度合いに苦戦。
・もともとあったテープの剥がし跡の再現に苦戦。
・赤ペンの書き込みの色を再現しようとすると、隣ページの台紙の黄焼け具合が変わってしまうので、毎日印刷所に通い、刷りだして微調整の日々……。
 などなど。
 ここまでの拘りを伺うだけでも、もはや執念ともいえる情熱なのですが、なかでも最もインパクトの大きかったのが、『二銭銅貨』に出てくる点字の暗号表の再現に関するエピソードです。
 印刷でも点字は写るので、資料としてはプリントされたものでも問題ないのですが、<完全復刻>を目指す戸川氏は点字表にも妥協しませんでした。どうにかして再現できないか思案していた頃、ちょうど勤務先の近くに盲学校があったので、相談してみることにしたそうです。(おそらく、東京創元社から徒歩10分の東京都立文京盲学校のことではないかと思われる)
 すると、盲学校の先生が「ウチにある機械で打てるかも?」と、学校にあった点字機で打ち出して見せてくださったそうです。ですが、その打ち出された点字は乱歩のものと比べると間隔が微妙に違う……そこで「ひと世代前の機種では?」と、当時は使っていない点字機を探してきてくださり、打ち出してみると『貼雑年譜』のものに近い……「これだ!」となって、茶ばんだ用紙を印刷で再現し、そこに点字の暗号を盲学校の先生に200枚打ち出していただいたそう。
 凄すぎませんか、ほんと。
 快く引き受けてくださった盲学校の先生も凄いですけど、それを可能にしたのは、おそらく戸川氏の情熱あっての事なのだと思います。
 乱歩の資料として、戦時下の資料として、色んな方面でその重要性が認められる『貼雑年譜』ですが、そういった資料の完全復刻版のモデルケースとして東京創元社版『貼雑年譜』には独自の価値があると思います。
 200部限定のため、現在は個人で所有されている方以外は、限られた機関でしか見ることができません。
 お近くの図書館や所属している大学が所蔵しているようでしたら、ぜひその情熱の結晶を見せてもらってくださいね。

平井憲太郎氏と乱歩おじいちゃんの「貼雑帖」

 TVや雑誌の取材などで、度々「自分にとって乱歩は普通のおじいちゃん」だと仰られているのを目にしておりましたが、今回、ご本人の口からこの言葉を聞けたことが個人的にとても感慨深かったです。

 憲太郎氏にとって、乱歩はあくまで祖父という感覚であったため『貼雑年譜』の存在も『探偵小説四十年』を読んで知ってはいたが、わざわざ蔵から出してまで見ようとは思わなかったそう。
 そして『貼雑年譜』の初めには「門外不出」とあるのもあり、憲太郎氏が中学の頃まで乱歩が生きていたので、あまり表に出されることも無かったようです。
 講談社版『貼雑年譜』の頃には、憲太郎氏の父・隆太郎氏がご存命だったので、それを見て制作の苦労も知っていたが、ちゃんと『貼雑年譜』を見たのは、戸川氏の東京創元社版の出た頃だったかもしれないとのこと。
 その当時、立教大学に色々な資料を引き渡す時期と重なって『貼雑年譜』も注目を浴びるようになり、他方から「見せて欲しい」という声も多く、孫である自分がそれに答えられないのも申し訳ないので、改めて勉強することになった、というのが『貼雑年譜』と向き合う切欠だったようです。

 改めて『貼雑年譜』を紐解いていくと、「門外不出」とし、序文にも「私自身の備忘と慰みのため」「私の家族、子孫にとって」と書いてあるものの、そこには他者の目を意識して書かれたと思われる点が多くある。
 父・隆太郎氏の認識としては、乱歩の単なる家庭の記録ではなく、もっと広い資料性を認識していたのではないか、とのことで、実際、○○を参照せよ、などのマニュアルが設けられていたり、『二銭銅貨』の膨大な草稿は誰のために残されたのかということを考えると、決して「門外不出」のものとしては想定されていないようにも考えられるが、現在のように誰でも見られるようなパブリックなものにするかという点に関しては、乱歩自身は迷いがあったようにも感じられる、とのこと。
 その点に関しては『探偵小説四十年』などの発表されたものには、あまり書かれなかった事柄(池袋ロータリークラブの事など)が『貼雑年譜』には詳しく残されている点を比較することで、いずれパブリックになることを意識していたかどうかを推察することが出来るかもしれない、ということでした。
 そして、憲太郎氏が『貼雑年譜』と向き合って感じたのは、『貼雑年譜』の作成を始めた当時の乱歩は「楽しかったんだろうな」ということだそうです。
 『貼雑年譜』の序文には「時局のため」文筆活動が制限されたためとありますが、憲太郎氏が思うには「単に暇になったから、ではなく、やりたいことがやれる時間が出来た、という方が正しいかもしれない」のだそうで、乱歩は過去にも漫画を描いたりデザインをしたりもしているので「本という四角い枠に切り抜きなどをレイアウトし、収めていく、そういう作業が好きだった。それが「貼雑帖」になっていく。紙の上に記憶を復元していくのが楽しかったのだろう」と推測されていました。

 このお話を聞いて私がとても腑に落ちたのが、乱歩の自分に対する徹底した客観視についてです。
 乱歩は「収集癖」という随筆に、人々は何故他人のものばかり集め、自分のものに興味がないのかと問い、「自己蒐集こそ最も意味があるのではないか」と書いています。そして、自分に関する膨大な量の記事を集め、その一部が『貼雑年譜』に収められています。
 そのことから、自分大好きのナルシスト的な誤解をされることがたまにありますが、私は「そうではない」とずっと思ってきました。
 乱歩は他人の評価をとても気にする作家で、自分の作品について書いたものの中にも、読者や世間の評判を気にしたり、自信のなさとも取れる文章をよく目にします。
 ですが、それらは<自意識過剰>という簡単な一言で片づけてよい問題ではなく、もっと広い目でこの作家を見なければいけないのだと私は思います。
 人間とは常に曖昧で移り変わるもので、一部を切り取ってたとしても心の底までは解り得ないものであり〈自分自身もそれは例外ではない〉ということを前提に、客観的な<評価>という情報をもとに、自分を分析していく……その分析に、世間の声や自分に関する記事がデータとして必要であったのであって、乱歩は決して自分大好きマンだから自己蒐集をしていたのではないと思う。
 個人的には、乱歩は自分を〈平井太郎〉と〈江戸川乱歩〉で別々の人間として客観視していて、太郎が乱歩の作家研究をしていたように思います。
 『貼雑年譜』を作成するにあたって、<他人から見た自分という研究>に、新たな資料が増えたり成果が出たりするわけですから、そりゃあ楽しかったハズですし、自分というものが解明されていく過程は、探偵小説を読む際の快楽にも似ていたのではないかと思います。
 憲太郎氏のお話からは、そんな乱歩の姿を想像でき、本当にその通りだと感じました。乱歩を身近に見てきた方の口から、そのことを聞けたことをとても嬉しく思います。

 乱歩の御令孫である憲太郎氏のお話を伺える貴重な機会ということで、『貼雑年譜』以外のこともインタビューされていました。
 成長して乱歩が祖父であることを意識されたことは? という質問には、やはり「普段の乱歩を作家・江戸川乱歩と重ねることはなかったし、乱歩も望まなかった。自分にとっては普通のおじいちゃん」とのこと。
 晩年は「本を読んで楽しく過ごしていたようだが、パーキンソン病の症状が重くなり、書けなくなることは辛そうだった。妻・隆さんに苦労をかけた負い目もあるのか、代筆は(憲太郎氏の)母に頼み、母が秘書としての役割を担っていた。よく母を呼ぶ声を記憶している」「忙しい頃はイベントごとが無いと会えなかったし、家に居るようになった頃には体も弱っていた。怒られたりした記憶はないが、憲太郎氏が友人との電話で英語のANYの発音を間違えているのを乱歩が聞いていて、「それはエニイだよ」と正されたのを覚えているので、そのくらいの元気はあったようだった」と、晩年の乱歩を回想されていました。

 また、晩年(1961年)に贈られた、紫綬褒章については「よほどうれしかったと思う。自分が認められることでミステリが認められることも嬉しかったと思う」と仰っていました。
 乱歩は作家としてだけでなく、ミステリというジャンルに対して大きな仕事を残した作家でもあります。常に日本のミステリ界について考え、戦前から純文学に対してランクが下と見られる大衆文学(娯楽小説)の地位向上やミステリジャンル復興に心血を注ぎ、ジャンル外の作家などにミステリを書かせたり、新人の育成に力を入れ、賞を創設し与えたり、と今日まで続くミステリというジャンルを未来に繋げた、乱歩の人生が認められた訳です。
 自己評価で満足できない乱歩が、他者からの最高の評価とも言える紫綬褒章を与えられたことを思うと、つい涙腺が緩みますね。1965年に乱歩は亡くなるので、間に合って本当によかった。そして、ありがとう乱歩。

研究発表とオンライン版『貼雑年譜』の公開について

 ゲストお二人の貴重なお話の後は、シンポジウムの本題である『貼雑年譜』の調査報告と各巻の担当者による研究発表の時間でした。
 スライドに資料写真を映しながらの解説なので、いち早く未公開資料を見させていただくことが出来ました……!
 こちらは、現在オンライン版が公開されていますので、自費で18万円払うか、自身の所属機関などが購入してくれるのを待ちましょう……。

 詳細な研究発表の内容は、上記のリンク先の左下に、第一部から第四部まで掲載されているので、そちらをご参照ください。
 シンポジウムと全く同じではないですが、各研究者による詳細な「解題」が掲載されています。

 簡単にまとめると、乱歩の文筆業再開の忙しさに伴い、③巻からは直筆の書き込みも少なくなり徐々にスクラップを貼っただけになっていくため、乱歩の資料としては重要視されてこなかった部分も全てオンライン版で見ることが出来るようになりました。

 しかし、貼られただけのものでも、戦中戦後の資料的価値はもちろん、そこに<貼ることを選んだ>乱歩の思惑を読み取ることが出来ます。

 これまで復刻された『貼雑年譜』には収められていない後半の巻には、後輩作家が評価された記事のスクラップ、少年読者からの手紙、読書調査に関する記事など、ジャンルの隆盛に奮闘する乱歩の想いを感じ取ることが出来ます。
 そして、戦時下の資料について乱歩自身の筆で特に言及はされていなくとも、戦争自体には反対であっても自分が国から睨まれてしまっては文筆業再開が不可能になるだけでなく、ミステリ作家の代表格である自分の所為でミステリジャンルの立場が悪くなることは避けたい、というような当時の乱歩の葛藤を読み取ることが出来る資料も残されています。
 また、全9冊の『貼雑年譜』に<貼られなかった>スクラップは、まだまだ膨大な量が残っており、その調査は現在も続行中とのことで、その公開が成される頃には、「なぜ貼らなかったのか」という視点を考慮しての研究が進みそうです。

 長いタイムスケジュールがあっという間に感じられるくらい興味深いお話ばかりでしたし、場の空気も和やかで、とても楽しい時間でした。
 大変貴重な経験をさせていただきありがとうございました!

おまけ:旧江戸川乱歩邸施設整備事業への募金

 現在、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターでは、旧江戸川乱歩邸の維持管理、資料の保存などの事業にかかる費用の寄付を募っていらっしゃいます。(2023年11月現在、特に募集期間は設けられていません)

立教学院インターネット募金 (fundexapp.jp)
 上記のサイトにアクセス(又は「立教学院インターネット募金」で検索)し、指定寄付の項目で「旧江戸川乱歩邸施設整備事業」を選択すると募金可能です。
 顕彰(お礼)は、
・『センター通信』などに名前が掲載される
・個人10万(法人30万)以上で、改修後の乱歩邸内にネームプレートが設置される
・個人3千円以上で、雑誌『大衆文化』や『センター通信』がもらえる。
・個人1万円以上で、上記に加えオリジナルグッズ(未定)がもらえる。

『大衆文化』は、こんな感じの冊子。だいたい500円前後。

 なので、普通に毎回『大衆文化』を現金購入している身としては、ちょっと上乗せするくらいの募金ならするわ、って感じです。(流石に10万はきついですが……。8万足したらオンライン版『貼雑年譜』買えちゃう)
 近年、コロナ禍で作家ゆかりの建築物がバカスカ無くなっていった記憶も新しいので、保存と維持に少しでも協力できればと思いますね。

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